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東京地方裁判所 昭和51年(刑わ)4312号 判決

《目次》

主文

理由

(認定事実)

第一 被告人両名の経歴

一 被告人橋本

二 被告人佐藤

第二 昭和四〇年代前半における我が国航空企業の運営体制に関する諸問題と同四五年一一月二〇日の「航空企業の運営体制について」の閣議了解―本件の背景事情として

一 昭和四〇年代前半における我が国航空企業の運営体制に関する諸問題

1 航空業界の再編成問題

2 全日空の近距離国際線進出問題

3 国内幹線用機材の大型化問題

二 昭和四五年一一月二〇日の「航空企業の運営体制について」の閣議了解

第三 被告人橋本が若挾から請託を受けたこと及びこれに関連する事実

一 請託に至る経緯

1 昭和四五年後半における日航の国内線大型化計画実現の動きと運輸省の対応

2 昭和四五年後半における全日空の大型機導入準備体制の実情と同四七年度導入実現の見通し

3 全日空が日航の国内線大型化計画実現の動きを了知したこととこれに対する全日空の対応

二 若挾の被告人橋本に対する請託

三 被告人橋本が運輸省事務当局をして、若挾の請託の趣旨に沿う行政指導を行わせたこと

第四 被告人佐藤が若挾らから請託を受けたこと及びこれに関連する事実

一 第一回請託(昭和四七年四月中旬ころ)とこれに至る経緯

二 第二回請託(昭和四七年五月八日ころ)とこれに至る経緯

三 第三回請託(昭和四七年六月下旬ころ)とこれに至る経緯

四 運輸大臣通達の成立(昭和四七年七月一日)とこれに至る経緯

第五 被告人両名の職務権限

一 被告人橋本

二 被告人佐藤

第六 若挾、藤原が被告人両名に対する金員の供与を共謀し、その実行方を丸紅に依頼したことなど

第七 罪となるべき事実

一 被告人橋本

二 被告人佐藤

(証拠の標目)〈省略〉

(法令の適用)

(弁護人の主張に対する判断)

第一 被告人橋本関係

一 「昭和四五年後半における日航の国内線大型化計画実現の動きと運輸省の対応」について(判示第三・一・1の関係)

二 「昭和四五年後半における全日空の大型機導入準備体制の実情と同四七年度導入実現の見通し」(判示第三・一・2の関係)、「全日空が日航の国内線大型化計画実現の動きを了知したこととこれに対する全日空の対応」(判示第三・一・3の関係)及び「若挾の被告人橋本に対する請託」(判示第三・二の関係)について

1 当裁判所が判示各事実を認定した理由の補足説明

2 弁護人の主張について

(一) 「昭和四五年後半における全日空の大型機導入準備体制の実情と同四七年度導入実現の見通し」について

(二) 「全日空が日航の国内線大型化計画実現の動きを了知したこととこれに対する全日空の対応」について

(三) 「若挾の被告人橋本に対する請託」について

三 「被告人橋本が運輸省事務当局をして、若挾の請託の趣旨に沿う行政指導を行わせたこと」について(判示第三・三の関係)

第二 被告人佐藤関係

一 「第一回請託(昭和四七年四月中旬ころ)とこれに至る経緯」について(判示第四・一の関係)

二 「第二回請託(昭和四七年五月八日ころ)とこれに至る経緯」について(判示第四・二の関係)

三 「第三回請託(昭和四七年六月下旬ころ)とこれに至る経緯」について(判示第四・三の関係)

四 「運輸大臣通達の成立(昭和四七年七月一日)とこれに至る経緯」について(判示第四・四の関係)

第三 被告人両名関係

「若挾、藤原が被告人両名に対する金員の供与を共謀し、その実行方を丸紅に依頼したことなど」(判示第六の関係)及び「被告人両名がそれぞれ収賄をしたこと」(判示第七の関係)について

第四 公訴棄却の主張について(被告人佐藤)

(量刑の事情)

主文

被告人橋本登美三郎を懲役二年六月に、被告人佐藤孝行を懲役二年にそれぞれ処する。

被告人両名に対し、この裁判の確定した日から各三年間、それぞれその刑の執行を猶予する。

被告人橋本登美三郎から金五〇〇万円を、被告人佐藤孝行から金二〇〇万円をそれぞれ追徴する。

訴訟費用の負担〈省略〉

理由

(認定事実)

第一  被告人両名の経歴

一  被告人橋本

被告人橋本は、昭和二年三月早稲田大学政治経済学部政治科を卒業後、同年四月東京朝日新聞社に入社したが、同二〇年一一月本社東亜部長を最後に同新聞社を退職し、その後、同二一年九月茨城県行方郡潮来町長に就任し、次いで同二二年四月施行の同町長選挙に立候補して当選したが、同二三年一二月これを辞任し、同二四年一月二三日施行の衆議院議員選挙に茨城県第一区から立候補して当選して以来同選挙区から連続一二回衆議院議員に当選し、次いで同五五年六月二二日施行の衆議院議員選挙に落選して現在に至つているところ、その間、同三五年七月一九日から同年一二月八日まで第一次池田内閣の建設大臣、同三九年一一月九日から同四一年八月一日まで第一次佐藤内閣の内閣官房長官、同日から同年一二月三日まで同内閣の建設大臣等を歴任し、同四四年一二月二七日から同四七年一一月一三日まで衆議院議員、同四五年一月一四日から同四六年七月五日まで第三次佐藤内閣の運輸大臣の各地位にあつた。また、同被告人は、同三〇年のいわゆる保守合同以来自由民主党(以下、自民党という。)に所属し、同五一年八月二三日同党を離党したが、その間、同三〇年以来同党の副幹事長、広報委員長及び総務会長を歴任し、同四七年七月七日から同四九年一一月一一日まで同党幹事長を務めた。

二  被告人佐藤

被告人佐藤は、昭和二七年三月明治大学政経学部政治学科を卒業後、同年一〇月から衆議院議員平塚常次郎の秘書をしていたが、同三八年一一月二三日施行の衆議院議員選挙に北海道第三区から立候補して当選して以来同選挙区から連続四回衆議院議員に当選し、次いで同五一年一二月五日に施行された衆議院議員選挙には落選したが、その後同五四年一〇月七日及び同五五年六月二二日各施行の衆議院議員選挙に同選挙区から立候補して連続当選し、現在に至つているところ、その間、同四四年一二月二七日から同四七年一一月一三日まで衆議院議員、同四六年七月九日から同四七年七月七日まで第三次佐藤内閣の運輸政務次官の各地位にあつた。また、同被告人は、同三五年以来自民党に所属し、同五一年八月二〇日同党を離党したが、その間、同四六年七月から同四九年一一月まで同党政務調査会交通部会長を務め、同年一二月一二日同党総務局長に任命されたが、右離党と同時にこれを辞任した。

第二  昭和四〇年代前半における我が国航空企業の運営体制に関する諸問題と同四五年一一月二〇日の「航空企業の運営体制について」の閣議了解―本件の背景事情として

一  昭和四〇年代前半における我が国航空企業の運営体制に関する諸問題

1航空業界の再編成問題

我が国では、昭和三九年初頭において、航空企業として、日本航空株式会社(以下、日航という。)、全日本空輸株式会社(以下、全日空という。)並びにいわゆるローカル六社と総称された中日本航空株式会社(以下、中日本航空という。)、長崎航空株式会社(以下、長崎航空という。)、富士航空株式会社(以下、富土航空という。)、北日本航空株式会社(以下、北日本航空という。)、日東航空株式会社(以下、日東航空という。)及び東亜航空株式会社(以下、東亜航空という。)が併存し、国際路線(以下、国際線という。)は日航、国内幹線(以下、幹線ともいう。)は日航及び全日航、ローカル路線(以下、ローカル線という。)は全日空及び右ローカル六社がそれぞれ運営していたが、右ローカル六社はいずれも経営基盤がぜい弱で運航の安全性も懸念される状態であり、その集約化が望まれていたところ、富士航空、北日本航空及び日東航空の三社は、政府の指導もあつて同年四月会併して日本国内航空株式会社(以下、日本国内航空という。)を設立し、次いで、同社の経営基盤の強化に資するため、同年一一月六日付で示された「国内幹線の運営体制について」の運輸省方針により、日本国内航空にも幹線への参入が認められ、同社は同四〇年三月から幹線(「東京―札幌」線及び「東京―福岡」線)の運航を開始し、幹線運営は、日航、全日空の二社体制から日航、全日空及び日本国内航空の三社体制に移行した。

ところが、日本国内航空は、幹線に参入したものの、景気の沈滞等の影響で旅客需要が伸び悩んだうえ競争力が弱かつたことなどから、著しい経営不振に陥つて巨額の赤字を計上し、また、同四一年二月及び同年三月には羽田及び富士山上空において全日空及び外国航空会社の大きな航空機事故が三回にわたり続発して航空旅客需要が激減したが、右各事故は幹線運営企業中企業規模が最小の日本国内航空に最も大きな影響を与え、その経営状態は更に悪化した。そこで、政府は、航空の安全性確保の見地等から、同年五月二〇日付「航空企業の経営基盤の強化について」の閣議了解により、日航と日本国内航空とは将来合併することを前提として適正な条件により運営の一体化を図るとともに、ローカル線運営企業(東亜航空及び長崎航空を指す。)の幹線企業(この場合は全日空が予定されていた。)への統合を促進するものと定め(なお、中日本航空は、既に同四〇年二月その定期部門を全日空に譲渡している。)、ローカル線をも含む国内線全般を日航及び全日空の二社体制で運営する旨の基本方針を打ち出した。

右方針に基づき、日航と日本国内航空は、同四一年六月二四日、

① 日航は日本国内航空の幹線の運営を引受ける

② 日航は日本国内航空から、ボーイング七二七型航空機等ジェット機三機(いずれも、日本国内航空が幹線に使用していた機材)を賃借する

③ 同四六年四月ころまでに日航が日本

国内航空を合併することを目標とする旨の条項等を内容とする覚書に調印し、以後、日航は右賃借三機を国内幹線に投入して自社の事業計画に従つてこれを運航し、日本国内航空はローカル線のみを運営していた。

他方、全日空は、同四二年一二月長崎航空の定期部門を継承したが、東亜航空との合併については、運輸省の指導を受けるなどしながらその交渉を進めたが、合併比率の問題等で両社の主張が折り合わず、進展しないまま推移した。

ところが、同四三年ころから国内の航空旅客需要は毎年前年比三〇ないし四〇パーセントと急激に増加し、これに伴い各航空会社の業績も急速に向上したため、このような情勢を背景に、日本国内航空、東亜航空は、次第に日航、全日空との合併に消極的となり、同四五年六月ころには日本国内航空と東亜航空が合併して、日航、全日空に次ぐ第三勢力を目指す動きが表面化してきた。

2全日空の近距離国際線進出問題全日空は、終始日航一社体制によつて運営されていた国際線について、かねてから近距離国際線への進出を念願としていたところ、昭和四〇年一二月二七日の「わが国定期航空運送事業のあり方について」の航空審議会答申において、「いわゆる近距離国際線における定期航空については、原則として、日航において一元的に運営することが適当である」旨一社体制に例外を認める余地のある考え方が示唆され、同四五年に入つてからは、同年六月四日自民党航空対策懇談会が示した「航空政策に関する基本方針」において、「近距離国際線については、将来全日空にも進出する機会を与える」とされるなど、同党の交通関係国会議員等関係者の間に全日空にも近距離国際線定期航空の運営を認めるべきであるとの気運が醸成されるに至つた。

3国内幹線用機材の大型化問題

前記のとおり昭和四三年ころから国内の航空旅客需要が急激に増加し、この傾向はその後も続くものと予測されたところ、これに対処して輸送力を増強するには、空港の輻輳及び乗員の不足等の事情から便数の増加にはおのずから限界があるため、航空機の大型化を図る以外に途はないとするのが航空業界のすう勢であり、日航、全日空は同四四年ころから国内幹線への大型機導入の検討を始め、運輸省においても、同四七、八年ころ、それも航空会社側で大型機受入れの条件が整い次第できるだけ早期に大型機の導入を認める方針で臨むこととした。当時、国内線用大型機としては、ザ・ボーイング・カンパニー(以下、ボーイング社という。)製B―七四七SR型機(以下、B―七四七SRという。)、マクダネル・ダグラス・コーポレイション(以下、ダグラス社という。)製DC―一〇―一〇型機(以下、DC―一〇という。)、ロッキード・エアクラフト・コーポレイション(以下、ロッキード社という。)製L―一〇一一型機(以下、L―一〇一一という。)の三機種が有力候補に挙げられ、ボーイング社及びその代理店である日商岩井株式会社、ダグラス社及びその代理店である三井物産株式会社、ロッキード社及びその代理店である丸紅飯田株式会社(同四七年七月丸紅株式会社に商号変更。以下、丸紅という。)は、日航及び全日空に対し、右各大型機の売込み競争を行つていた。ちなみに、当時国内幹線で使用していた機材の中で最も大型のものは、日航では約二四〇席のDC―八―六一型機(同四五年四月から就航)で、全日空では約一七八席のB―七二七―二〇〇型機(同四四年一〇月から就航)であつたが、B―七四七SRは五〇〇席前後、DC―一〇及びL―一〇一一はいずれも三百数十席の機材として開発中であり、通称、B―七四七SRは「ジャンボ」、他の二機種は「エアバス」と言われていた。

ところで、日航は、国際線用機材として既に同四一年以降ボーイング社製の長距離用大型機材であるB―七四七LR型機(以下、B―七四七LRという。)を発注し、同四五年七月にはこれを太平洋線に就航させていたところ、国内線用大型機については、同四四年七月に至り、それまで行つてきた機種選定作業を白紙に還元し、いつたんこれを中断することとしたが、同四五年九月策定の長期計画において、同四七年度には国際線用に導入したB―七四七LR三機を国内線に転用し、同四八年度に新大型機六機を国内線に投入することとした。他方、全日空は、当初各部門で個別的に検討を行つていたが、大型機導入のための検討は各部門にまたがる問題が多く全社的に統制する機構を設ける必要があるとの見地から、同四五年一月六日常務会の議を経て、同四七年四月に大型機を導入することを目標に新機種選定準備委員会(以下、選定委という。)を発足させ、前記三機種を対象(ただし、選定委発足当初は右三機種のほかに欧州製の二機種も一応候補に挙げられていたが、間もなく欧州製の右二機種は選定対象からはずされた。)に同四五年三月末までに機種を決定するとのスケジュールで選定作業に着手したが、右期限を経過してもなお決定に至らないまま、同年六月一日大庭哲夫社長(以下、大庭という。)が辞任し、若挾得治(以下、若挾という。)が社長に就任して選定作業を継続することとなつた(なお、同人は同五一年一二月まで同社社長の地位にあつた。)。ちなみに、選定委(通例「本委員会」と称された。)は、委員長である副社長と専務取締役等の委員で構成され、企画室長を幹事とするものであり、その性格は社長の諮問機関であつた。また、本委員会の下に、企画室長を部会長とし各部長をメンバーとする総括部会が設置され、企画室が同部会担当の事務局になり、更に同部会の下に専門部会として整備、運航、営業(ハンドリング)、コスト資金及び契約の各部会が設置されていた。

二  昭和四五年一一月二〇日の「航空企業の運営体制について」の閣議了解

運輸大臣橋本登美三郎(被告人)は、航空企業の運営体制に関する前記のような諸問題について航空政策の基本方針を策定するため、昭和四五年六月二五日運輸政策審議会(以下、運政審という。)に対し、「今後の航空輸送の進展に即応した航空政策の基本方針について」の諮問を行い、これに対する運政審の同年一〇月二一日付答申について、航空各社に協力方を要請するとともにその各意見を求め、次いで政府は、同年一一月二〇日右答申の指摘を骨子として、

① 航空機のジェット化・大型化を推進する

② 日本国内航空及び東亜航空が円滑かつ可及的速やかに合併し、新会社を設立することを促進する。新会社は、当面ローカル線を運営するものとし、将来企業基盤の充実強化等条件が整つた場合には同社に幹線運営を認めるものとする

③ 日航と日本国内航空が合併しなくなることに伴う問題の処理は、両社が協議し、政府の承認を受けて決定する

④ 航空輸送需要の多いローカル線については、原則として同一路線を二社(すなわち、全日空と新会社)で運営する

⑤ 国際定期航空については、原則として、日航が一元的に運営する

⑥ 近距離国際チャーター航空については、日航と全日空の提携のもとに余裕機材を活用し、我が国国際航空の積取比率の向上に資するよう努める

旨の事項等を内容とする「航空企業の運営体制について」の閣議了解を行つた。

なお、全日空の近距離国際線進出問題については、前記のとおり同社にも近距離国際定期航空の運営を認めるべきであるとの気運が醸成されたのであるが、その後日航の強い反対等もあつて、右の運政審答申及び閣議了解では、右⑥のように日航との提携による近距離国際チャーター航空の運営が認められるにとどまつたものである。

第三  被告人橋本が若挾から請託を受けたこと及びこれに関連する事実

一  請託に至る経緯

1昭和四五年後半における日航の国内線大型化計画実現の動きと運輸省の対応

(一) 日航では、昭和四四年一月の常務会の指示により、関係各部門において国内線用大型機の同四七年度導入の可否及びその機種につき検討を開始したが、整備部門から、既に同四五年七月からB―七四七LRの国際線への就航が予定されているところ、同機材の就航後少なくとも二年間はその整備に専念しなければならず、余力がないので、更に新たな大型機の導入は、でき得れば同四八年度にされたい旨の希望が出されたことなどにより、常務会は、同四四年四月、同四七年度における新大型機の導入は見送ることとし、なお、その後同四四年七月、前記のように機種選定作業をいったん中断することとした。ところが、同四五年に入ると、万国博覧会開催に伴う旅客増もあつて、国内の航空旅客需要は対前年同月比で五〇パーセントに近い予想外の増率を示し、空港の処理能力も限界に達するに至つた。特に東京国際空港においては輻輳が著しく、運輸省航空局(以下、航空局という。)としてもその緩和対策を講ずる必要性に迫られ、その結果、同四五年八月二一日付航空局長発各航空会社宛「東京国際空港の輻輳緩和対策について」と題する示達文書により、同空港における一日の発着回数をおおむね四六〇回を限度とする旨の規制を行い、これを受けて各航空会社は国内定期便の減便措置を講ずるのやむなきに至つた。右の情勢から、日航では、同四五年春ころから同四六年度以降同五〇年度までの長期計画を検討していた過程において、改めて同四七年度から国内線の大型化を実現する必要があると判断し、前記のとおり、同四五年九月策定の「四六〜五〇年度長期計画」の中で、「同四七年度にB―七四七LR三機を国際線から国内線に転用する」との計画(以下、本件転用計画という。)を立て、常務会の承認を得た。

(二) 航空局は、前記のとおり、同四七、八年ころ、それも航空会社側の大型機受入れについての条件が整い次第できる限り早期に国内線の大型化を実現することが望ましいと考えていたところ、日航の右長期計画策定の過程において本件転用計画についても日航側の説明を受け、同局として改めて同四七年度における大型機導入の可否を検討した結果、特段の支障はないとの結論に達し、右長期計画を了承した。

(三) そこで日航は、右長期計画によれば、既に同四五年七月から国際線に就航させていたB―七四七LRのうち三機を国内線に転用することとなるため、その補充を行う必要があり、かつ国際線に更にB―七四七LR一機を就航させる必要もあつたことから、B―七四七LR四機(一三号機ないし一六号機)を同四五年一一月末までに新たに発注する計画を立て、その取得認可を得たいとして同年一〇月ころから航空局に対し右機材発注計画の説明を行つていた。航空局は、右機材の取得は既に了承済みの長期計画実現に必要なものとして認可相当と判断し、大蔵省担当部局と折衝を行つた。大蔵省側は、右B―七四七LRを国内線に転用した場合国鉄新幹線の旅客需要に及ぼす影響等を配慮し、同年一一月二七日B―七四七LRを「東京―大阪」間には投入しないこと等の条件を提示し、これに対し、日航側がその投入予定路線を「東京―札幌」、「東京―大阪」の二路線から「東京―札幌」一路線のみに変更する旨の四七年度路線便数計画修正案を提示するなど、これを受け入れる意向を示したことによつて大蔵大臣の同意を得られる見通しが立つたところから、航空局は、同日付で日航から右四機の取得認可申請書を提出させる一方、大蔵大臣宛協議書を発し、同年一二月二日同大臣の同意を得て、同日、運輸大臣名義で日航に対し「昭和四五年一一月三〇日付で認可する」旨の認可書を発した。

(四) このようにして、日航は、同四五年一一月三〇日付でボーイング社に対し右B―七四七LR一三ないし一六号機を確定発注する旨のレター・オブ・インテントを発したうえ、一三及び一四号機については同年一二月三一日付で、一五及び一六号機については同四六年二月二八日付で同社との間に正式購入契約を締結した。なお、この間日航は、同四五年一二月一四日付で航空局に対し、B―七四七LRの国内投入予定路線として前記「東京―札幌」のほか、「東京―福岡」を加える旨の「四七年度国内線路線便数計画修正案(長期計画)」を提出し、その了承を得た。

2昭和四五年後半における全日空の大型機導入準備体制の実情と同四七年度導入実現の見通し

全日空では、前記のとおり、昭和四五年一月六日、同四七年四月に大型機を導入することを目標に選定委を発足させ、B―七四七SR等三機種を主たる対象に同四五年三月末までに採用機種を決定するとのスケジュールで選定作業に着手したが、右期限を経過してもなお決定に至らないまま、同年六月一日社長が大庭から若挾に交代し、引続き選定作業を行つていたものであるところ、若挾が社長に就任後同年末ころまで、すなわち同四五年後半における全日空の大型機導入準備体制の実情と同四七年度大型機導入実現の見通しに関する若挾及び全日空企画室長藤原亨一(以下、藤原という。なお、同人は同四四年一〇月右企画室長に就任し、同四七年六月同室が組織変更により経営管理室となつた後も同五一年一二月まで同室長をしていたものである。)の判断は次のとおりであつた。

(一) 昭和四五年後半当時、全日空内部では、今回の大型機の導入は、いずれの機種に決まるにせよ在来機に比し格段に規模の大きな新型の機材を導入するものであつて、技術的に新たな分野が多いため、安全性を十分確保しながらこれを運航に供するには、機種決定後導入までの準備に二年程度は必要であるというのが一般的な考え方であり、総括部会事務局が、同四五年八月各専門部会に対し、大型機の機種を決定した後これを路線に投入するまでに要する準備期間について照会し、そのころ各専門部会から検討結果の回答を受けてこれを取りまとめたところによつても、乗員の訓練等航務部門で二二か月(シミュレーター訓練委託の場合)又は三〇か月(同訓練を自社で行う場合)、格納庫の建設、整備土の訓練等整備部門で二四か月、客席の製作・取付、空港ビル内の施設の設置等営業ハンドリング部門で二〇か月とされており、同年九月七日開催の総括部会では、右の準備期間を考慮すると同四七年八月の運航開始が限度であり、機種の決定が遅れればそれも困難であるとされ、併せて同四八年度導入案も検討された。

また、全日空においては、大型機に従事する乗員(機長、副操縦士及び航空機関士)並びに整備士等整備要員を養成する場合、現有ジェット機であるB―七二七型機(以下、B―七二七という。)及びB―七三七型機(以下、B―七三七という。)の乗員(ただし、B―七三七には航空機関士は乗務していない。)及び整備士等の中から、一定年月以上のジェット機経験を有するなど大型機に当てるのにふさわしい適格者を選び、大型機の導入準備期間中に順次米国のメーカーへ派遣するなどしてこれらの者に大型機の訓練を受けさせたうえ、乗員及び整備士にあつては、大型機の国家資格を取得させなければならない(B―七二七又はB―七三七の乗員又は整備士が大型機に従事するためには、運輸大臣の実施する学科試験及び実地試験に合格して、同大臣から、各技能証明に付されたB―七二七又はB―七三七の型式限定について、大型機種への変更を受けなければならない。)という事情にあり、したがつて、右各訓練を実施するためには、あらかじめ、現有機材の安全運航に必要な乗員、整備土等の人員のほかに、大型機の訓練に当てる乗員、整備土等の余裕人員が確保されていることが必要であつた。ところが、同四五年後半当時、全日空では、前記のような同四三年ころからの航空旅客需要の急激な増加傾向に対処して供給力の増強を図る必要から、同四四年度に既にB―七二七及びB―七三七型機を合計九機増機していたほか、同四五年度にも右両型機を合計五機増機の方針でこれを実行中であり、更に、同四六年度ころから同四八年度ころにかけて、逐次FR―二七型機(以下、FR―二七という。)を退役させ、これを在来のYS―一一型機で補充し、そのあとをジェット機に置き換えるべく、B―七二七―二〇〇型機及びB―七三七を毎年合計一〇機前後あて増機する計画を立てていたため、ジェット機の右大量増機に必要な乗員や整備士等の養成に追われ、それだけで余力がない状態であつたところから、大型機の訓練に当てる乗員や整備士等の余裕人員を確保することは極めて困難な状況であつた。

(二) 若挾及び藤原は、右のような実情を路まえ、同四五年七月ころないし九月ころの時点で、全日空では同四七年四月からの大型機導入は困難であり、なるべく遅らせた方が全日空として万事好都合であると考えていたが、機種が決定しないまま同四五年一〇、一一月と経過する間に、全日空としては同四七年度内の大型機導入は至難であると考えるようになり、結局、安全性を十分確保する観点から整備、運航体制の充実を図る必要があること、前記FR―二七の退役計画等が軌道に乗つた段階からでなければ大型機導入のための準備を並行して行うのは困難であること等を総合勘案すると、全日空としては大型機導入時期を同四九年度以降とするのが最も望ましいと判断した。なお、全日空企画室は、同四五年一二月に策定した同四六年度を初年度とする経営五か年計画において、大型機を同四七年八月から同四八年三月までの間に導入することとしたが、これは日航との対抗上建前として掲げたにすぎず、同四五年一二月一六日の常務会で右五か年計画が検討された際にも、若挾は、右大型化計画を社内の実行計画として確定させることは不可能であると判断し、その点は当面航空局に対する説明用にとどめるよう指示した。

3全日空が日航の国内線大型化計画実現の動きを了知したこととこれに対する全日空の対応

(一) 藤原は、昭和四五年九月初めころ、日航が航空局に提出した資料等から本件転用計画を含む日航の国内線大型化計画の内容を知り、そのころこれを常務会等において若挾らに報告した。全日空としては、前記のように同四七年度に大型機を導入することが困難な状況にあつたため、日航が右計画どおり同四七年四月からB―七四七LRを国内線に転用し、全日空がこれに遅れをとることとなれば、日航に乗客を奪われ業績低下を招くことが目に見えていたところから、本委員会や総括部会等においても種々の対策を検討し、内部的にはできる限り日航の導入時期とのずれを縮めるべく準備を進める一方、日航との話合いにより同社の導入時期を遅らせるよう努めるとの方針をとることとなつた。

(二) 航空局長内村信行(以下、内村という。)は、前記運政審の答申があつたのを機に、同四五年一〇月下旬ころ、日航及び全日空両社に対し、大型機導入については両社の相互協調を期待しており、そのための両社協議の場を設けることが望ましいとの趣旨を伝え、これを受けて同年一一月上旬ころ、日航側は専務取締役稲益繁(以下、稲益という。)を、全日空側は専務取締役渡辺尚次(以下、渡辺という。)をそれぞれ首席代表とする協議委員会が設置され、同年一二月初めころまでの間に二回にわたり協議が行われたが、両社の思惑から導入時期の調整に関する話合いには至らず、以後は両社の担当部門相互間で機種選定上の技術的な問題に関するデータや意見の交換を行うにとどめることとされた。

(三) 藤原は、同年一二月初めころ、日航が前記のように同四七年度にB―七四七LRを国内線に転用することを前提に同型機四機を新たに取得すべく、運輸省の認可を受けてボーイング社にこれを発注した旨の情報を入手し、これによつて日航が右転用計画を具体的に実現しようと動き出したことを知り、直ちにその旨を若狹に報告した。若狹は、運輸省が全日空の意向を聞かずに日航にだけ大型機の導入を認めるとは考えていなかつたところから、これを聞いて驚き、そのころ日航社長松尾靜磨(以下、松尾という。)に対し右情報の真否を尋ねた結果、これが事実であることを確認した。そこで若狹は、松尾に対し、大型機の国内線導入は両社が協議して全日空も納得し得る時期にするよう考え直してほしい旨申し入れたが、同人は、日航としては運輸大臣の機材取得認可を受けて進めている計画であるから簡単に変えるのは難しいと思うなどと返答した。

(四) かくして、日航との話合いにより同社の同四七年度における大型機導入を延期させることが難しくなつたので、若狹は、渡辺及び藤原とも話し合つたうえ、運輸省に働きかけて、同省から日航に対し大型機の導入時期を延期するよう行政指導をしてもらうこととし、同四六年一月中旬ころ運輸省に赴き、航空局長内村、同局監理部(以下、監理部という。)の部長住田正二(以下、住田という。)に対し、「日航は国際線用B―七四七の取得認可を受け、国際線で使用中の同型機を国内線に転用すると言っているが、運輸省の従来の方針のとおり同一時期導入ということで、両社協議の結果まとまつた時期に導入を認めるようお願いしたい」旨陳情したが、同人らからは「日航と話し合うのは結構である」との趣旨の返答を得たにとどまつた。

二  若狹の被告人橋本に対する請託

そこで若狹は、被告人橋本に直接依頼し、同被告人の運輸大臣としての後記職務権限に基づき、日航に対し右の趣旨の行政指導を行つてもらうのが効果的であると考え、昭和四六年一月中旬ころ運輸大臣室に被告人橋本を訪ね、同被告人に対し、日航との話合いにより同社の同四七年度からの国内線への大型機導入計画を変更させることが困難な実情にあること等これまでの経過を説明したうえ、「全日空としては導入時期を四九年ころまで延期できれば好都合だが、日航側がそこまで延期することはとても納得しないと思うので、日航に対し、全日空との話合いがまとまつた時期に導入するよう行政指導をしていただきたい」旨依頼し、運輸大臣の右職務権限に基づき、同四七年度から大型機を導入すべく準備を進めている日航に対し、その導入時期を延期するよう行政指導をしてもらいたい旨の請託をした。これに対し、被告人橋本は、「入れるときは日航と全日空は同時にするのがよいと思うので、そのようにしよう」と答え右請託を了承した。

三  被告人橋本が運輸省事務当局をして、若狹の請託の趣旨に沿う行政指導を行わせたこと

1若狹から前記のような請託を受けてこれを了承した被告人橋本は、運輸省事務当局をしてその趣旨に沿つた行政指導をさせようと考え、昭和四六年二月上旬ころ、運輸事務次官町田直(以下、町田という。)に対し、大型機の導入は安全性確保の観点から慎重に検討するよう指示した。そこで、そのころ町田は、運輸事務次官室に航空局長内村、監理部長住田を呼び、両名に被告人橋本の右意向を伝えて意見を求めたところ、住田は、全日空に同四七年度導入の能力がなく、しかも共同運航、運賃プール等全日空との過当競争を防ぐ条件が整備されていない状況下で日航のみに同四七年度からの導入を認めるのは、全日空もこれに対抗して早期導入を図るなど安全面からも問題がある旨、内村は、国内線は国際線と違つて外国の航空会社との競争を考える必要はなく、運輸省の指導で十分調整できるわけだから何も急いで導入する必要はない旨それぞれ意見を述べ、協議の結果、同四七年度における大型機導入は認めないで、日航、全日空両社に対し、同四七年度からの大型機導入を同四九年ころまで延期するよう指導することに決めた。

2そこで住田は、直ちに監理部監督課(以下、監督課という。)の課長山元伊佐久(以下、山元という。)に対し、「大型機の国内線への就航時期を四九年度くらいに延ばした方がよいと思うが、そういう指導ができないか」と話したところ、山元が「日航に対しては、四七年度にB―七四七LRを国内に転用することを前提としたうえで法律上の取得認可を与えており、その前提を大きく狂わせるようなことを監督課として切り出すのは非常に難しい」旨の意向を示したので、同人と協議の結果、日航に対しては住田自らえん曲な表現を用いて右の指導を行うこととした。そこで、そのころ住田は、監理部長室に日航の専務取締役稲益を呼び、同人に対し、「四七年度からの大型機の国内線への導入は必要ないと思うが、これを四八年あるいは四九年に延ばすとすると日航にとつてどういう影響があるか検討されたい」旨指示し、運輸省としては昭和四九年ころまで延期させる意向である旨を伝え、大型機導入延期の行政指導を行つた。これに対し、稲益は「ついこの間、四七年度転用を前提に取得認可をもらつたばかりなのに、今この場でそういうことを言うのはおかしいのではないか」と反発し、右指導には承服し難い旨を表明したが、住田に説得され、とりあえず問題点を検討することだけを約した。

3一方、全日空に対しては、そのころ山元が藤原に、「これまでの大型化の指導に逆行するが、大型機導入は四九年まで遅らせたらどうか。日航にも同様の指導をするので、不具合があるか検討されたい」旨指示し、前同様の行政指導を行った。そこで、昭和四六年二月一〇日の常務会において藤原が右行政指導があったことを報告し、「検討の結果、四九年度導入とすることについてマイナス面はないと思うので、その旨航空局に回答したい」旨を諮った。若狹及び藤原は、被告人橋本が運輸省幹部に対し前記請託の趣旨に沿つて右延期の行政指導をなすように指示した結果、全日空の希望に沿つた線が運輸省当局から打ち出されたものと思い安堵し、今更延期の可否を論ずる必要はないと考えたが、なお建前としては前記のように全日空五か年計画に同四七年八月からの導入を目標として掲げ、社内各部門に対し準備促進方を要望していた経緯もあり、また、常務会の場では若狹が被告人橋本以下運輸省幹部に対し延期方の陳情を行つていた実情を知らない出席者も多かつたところから、右行政指導が全日空の陳情に基づいて行われたものであることを伏せ、全日空としてプラス、マイナスの両面を検討したうえでこの指導に応ずるとの形をとることとした。その結果、藤原の右提案が了承され、その後間もなく全日空としては右行政指導を了承する旨を航空局に回答した。

4ところで、日航では、稲益が前記行政指導があつた旨を社長松尾、副社長朝田静夫(以下、朝田という)に報告して協議した結果、日航としては右指導に承服し兼ねるとの結論に達し、その後昭和四六年六月初めころまでの間、再三にわたり航空局に対し反論資料を提出するなどして、従来の方針どおり同四七年度からの大型機導入を認めるよう強く要望した。右反論を受けて、住田は、監督課に対し、需給見通しの再検討をしたうえで同四七、四八年度に大型化しなくても必ずしも供給不足を生じないし、かえつて大型化を急ぐと供給過剰を招くおそれがあることを数字的に示す資料を作成し、これを日航に示して説得するよう指示した。そこで、同課補佐官橋本昌史(以下、橋本(昌)という。)は、右の検討作業を行つた結果、同四八年度まで大型化を不要とするのは数字的に全く論証不可能であるとしてその趣旨の資料作成は断念し、同四七年度については、大型機を導入しなくても在来機で需要を賄える旨の需給バランスの資料を一応作成して日航側に示したが、計算根拠として用いた数値の設定に無理があり、到底日航を説得するに至らなかつたため、山元らは全日空との話合いがつけば同四七年度導入を認めてもよいとの意向を示し、日航も全日空に対し、B―七四七LRの共同運航等の提案をするなどしてその合意を求めたが、全日空からこれを拒否された。右のような経過をたどるうち、同四六年七月にいわゆる「ばんだい」号事故及び雫石事故の航空機事故が相次いで発生したため、日航としてもそのショックによる影響を配慮せざるを得なかつたこともあつて、同年八月、同四七年度にB―七四七LRを国内線に就航させる計画を断念することとしてその旨発表したが、その結果、日航は、前記取得認可に基づき発注済みのB―七四七LR一三ないし一六号機の受領時期を延期するのやむなきに至り、その間ボーイング社に対する保管料の支払あるいは金利、保険料等の負担増に基づく損害を被ることとなつた。

第四  被告人佐藤が若狹らから請託を受けたこと及びこれに関連する事実

一  第一回請託(昭和四七年四月中旬ころ)とこれに至る経緯

1日本国内航空と東亜航空は、昭和四六年五月一五日、同四五年一一月二〇日の前記閣議了解に従つて合併し、東亜国内航空株式会社(以下、東亜国内航空という。)が設立された。ところで、これより先同四六年三月三一日ころ、日航は、日本国内航空に対し、同社が日航と合併しなくなつたことに伴う清算金として二八億四、〇〇〇万円余の支払を請求したが、解決に至らなかつたので、右清算金問題の処理は、合併後の東亜国内航空が引き継ぐこととして、日本国内航空と東亜航空は合併を行つたものである。なお、右清算金とは、日航側の主張によれば、日航は、日本国内航空が日航と合併することを前提に日本国内航空を財政的に援助するため、日航が日本国内航空から賃借していたジェット機三機の賃借料について、適正賃借料を越える額を支払つていたが、同社は日航とは合併しないこととなつたのであるから、日本国内航空は日航に対し、適正賃借料との差額及びこれに対する金利の支払をなす義務があるというのが主なものであつた。日航は、東亜国内航空が設立された後同社に右清算金の支払を求めたが、同社はこれを支払う法律上の義務はないと主張し、その後双方の主張が平行線をたどり、右清算金問題は解決のつかないまま推移した。

2被告人佐藤は、前記のとおり昭和四六年七月九日運輸政務次官に就任し、同年一〇月下旬ころ、運輸大臣丹羽喬四郎(以下、丹羽という。)の特命を受けて、右清算金問題に関し、日航と東亜国内航空両社間の調整に当たることとなつたのであるが、右の事情を知つた東亜国内航空専務取締役窪田俊彦(以下、窪田という。)より、同年一一月下旬ころから、運輸省事務当局が同社にとつて不利益な方向で偏ぱな行政を行つているとの不満や、経営危機に陥つている同社の実情等を訴えられるとともに、まずもつて路線配分や増便割当て等に関し後発企業である同社を優先して育成する方向で同四五年一一月二〇日の閣議了解事項を具体化し、同社の経営基盤の強化を図られたい旨の陳情を受けるなどするうち、右清算金問題を解決するためには同社を採算のとれる健全な企業とするよう政府がてこ入れする必要があるとの認識のもとに、運輸政務次官としての後記職務権限に基づき、右閣議了解に示された日航、全日空及び東亜国内航空の航空三社の事業分野等を更に具体化した施策を取りまとめて文書化し、これを運輸大臣名で運輸省部内に示して今後の航空行政の準則とするとともに、右航空三社に右具体化された施策を通知して、これに従つて今後の業務運営に当たるよう行政指導をなすことを企図し、丹羽大臣の了承を得た(以下、右の文書を通達という。)。一方、被告人佐藤が右のとおり、日航と東亜国内航空の清算金問題の処理にとどまらず、右閣議了解事項全般につき具体化作業をしようとしていることを察知した全日空企画室長藤原、同企画課員北御門洋らは、同四七年初めころから被告人佐藤に対し、全日空の近距離国際線の運営に関し、右閣議了解にいう「余裕機材を活用し日航との提携のもとに行う」との制限を撤廃し、仕向地を現状より拡大されたいことなどを陳情していた。

3被告人佐藤は、右のような東亜国内航空及び全日空からの陳情の趣旨に沿い、昭和四七年三月初めころ、航空局長内村、監理部長住田及び監督課長山本長(以下、山本という。)らに対し、東亜国内航空につきジェット化と幹線参入、更にはローカル綿の二社運営を早急に認めてその育成強化を図ること、全日空につき近距離国際線不定期航空運送事業の自主的な運営を認めることなどを骨子として、右閣議了解の具体化案を作成するよう指示した。これに対し、内村ら航空局幹部は、航空三社の利害がせん鋭に対立する事業分野の調整に関し、閣議了解事項を具体化して細部に至るまで行政方針を固定させることは好ましくないとして、被告人佐藤にその旨の意見を具申したが容れられなかつたため、同被告人の右の趣旨を取り上げながらもできる限り抽象的な表現にとどめて具体的基準を示すことを避けるとの基本的な考え方に基づき、

① 日航が運航し得る国内線である「幹線」の範囲を、「札幌・東京・大阪・福岡及び沖繩復帰後の那覇相互間の運航路線」と定義する

② 全日空の近距離国際線進出については、「逐次、近距離国際不定期航空運送事業の運営の充実を図る」こととする

③ 東亜国内航空については、同四七年度にローカル線の一部にジェット化を認め、その運航実績をもとに安全性を確認のうえ、国内幹線の運営を認める

④ ローカル線の二社運営は、輸送需要の多い路線から逐次実施する

⑤ 国内線の増便基準は、路線の性格及び利用率を勘案して決定する

⑥ 日航と東亜国内航空の清算問題について、両社は運輸大臣の裁定に従う

等を主たる内容とする同四七年三月二二日付「航空企業の運営体制について」と題する通達案(以下、第一次佐藤案という。)を作成した。

4被告人佐藤は、昭和四七年三月二二日開催の自民党航空対策特別委員会(以下、航対委という。)の会議に第一次佐藤案を提出したところ、民営二社(全日空と東亜国内航空)とりわけ東亜国内航空を育成強化する方向で更に具体化すべきであるとの意見が大勢を占め、被告人佐藤において更に内容を具体的に詰めたうえ再度航対委に報告することとなつた。被告人佐藤は、右航対委終了後、全日空の藤原及び東亜国内航空の窪田に対し、第一次佐藤案を修正する形式でこれに対する意見を提出するよう求めた。これに対し、全日空は、同年三月下旬ころ、被告人佐藤に対し、

① 国内幹線の定義につき、那覇を削除したうえ、那覇と東京・大阪・福岡相互間は経過措置として幹線とみなすにとどめることとする

② 全日空の近距離国際線につき、「差し当たり、国際航空輸送の一環として国際不定期輸送事業の拡充を図る」と改める

③ 東亜国内航空の幹線参入につき、「日航のシェアの段階的縮小において実施する」旨の文言を付加する

④ ローカル線の二社運営につき、「過当競争の弊が生ずることのないように十分慎重を期し」との文言を付加する

⑤ 増便基準につき、「民間企業優先を建前とする」と改める

等を主たる内容とする修正意見書を提出し、また、そのころ東亜国内航空は、被告人佐藤に対し、

① 日航の事業分野につき、「国内幹線は現状をもつて据え置く」旨の文言を付加する

② 全日空の近距離国際不定期につき、「自主運営を認める」旨の文言を付加する

③ 東亜国内航空の事業分野につき、「昭和四八年度から日航の協力の下に幹線参加を、同四九年度から幹線のジェット機による自立運営を認め、幹線の需要増による増機、増便等は原則として東亜国内航空に割り当てる」との趣旨に改める

④ 増便基準につき、「なお、大型ジェット機の就航は当分見合せ、将来三社の意見調整の上決定する」との文言を付加する

等を主たる内容とする修正意見書を提出した。

5他方、航空局事務当局側においては、被告人佐藤から第一次佐藤案を更に具体化するよう指示され、昭和四七年三月下旬から四月上旬にかけてのころ、第一次佐藤案につき、

① 国内幹線の定義を削除する

② 全日空の近距離国際線につき、「逐次近距離国際チャーター航空の充実を図る」と改める

③ 東亜国内航空の幹線参入につき、「その時期は四九年度をめどとする。この場合路線の選択は同社の自主的判断によるものとし、運営開始時の投入輸送力はその路線の当該年度の需要の伸び率の範囲内で三社協議して定める」旨の文言を付加する

④ 幹線及びローカル線の増便基準につき、「需要見通しの伸び率の範囲内で、企業の自主的判断により決定するものとし、特定路線の利用率が一定基準を越えるものについては企業は増便をしなければならない」との趣旨に改める

⑤ ローカル線の二社運営につき、「当分の間、(右増便の)基準を上回る路線のうちから各社二路線ずつ行うものとする」と改める

等を主たる内容とする改訂案を作成するなどしたが、そのころから被告人佐藤は、航空局事務当局に立案させることをやめ、必要に応じ筆記役等の補助者として監督課補佐官橋本(昌)を政務次官室に呼び寄せ、自ら立案作業を行うようになつた。

6若狹は、右のように被告人佐藤自ら通達の立案作業に本格的に取り組もうとしていることを知り、同被告人が東亜国内航空最優先の方向で立案するのではないかとの危ぐを抱き、同被告人に依頼して全日空の利益を擁護する必要があると考え、また、前記のとおり、日航が運輸省の大型機導入延期の行政指導に従わざるを得ない立場に追い込まれ、昭和四七年度からの国内線大型化の基本方針を強行することは断念したものの、同四六年九月策定の「四七〜五一年度長期計画」の中で同四八年度にB―七四七LR三機を国内線に転用する旨の計画を立て、あるいは、同四七年正月に全日空の了解を得ないで福岡―東京路線に同型機の臨時便を就航させ、また、全日空に対し同四八年度から大型機を国内線に導入する旨の提案を行い、なかんずく同四七年五月一五日沖繩復帰後国内線となる沖繩線に同年四月一五日から同型機を就航させたい旨の事業計画変更認可申請を同年三月三一日付で運輸大臣に対して行うなど、早期大型化を図ろうとしていたところから、これを阻止すべく、通達中に大型機導入時期を全日空の希望する同四九年度以降とする旨定めてもらうことにより決着をつけたいと考えた。そこで若狹は、同四七年四月中旬ころ運輸政務次官室に赴き、被告人佐藤に対し、

① 大型機の国内幹線導入時期を同四九年度以降とすること

② 当分の間東亜国内航空の幹線参入を認めず、かりにこれを認めることとなつた場合は日航のシェアの縮小によつて行うこと

③ ローカル線のダブル・トラッキングについては、全日空の運営している路線に東亜国内航空の参入を認めるだけでなく、全日空にも東亜国内航空が運営している同等の路線に参入することを認める相互平等主義に則つて実施し、当該路線の利用率が一定水準、例えば七〇パーセントに達しないうちは認めないこと

等を通達中に定められたく、また、全日空は近距離国際線定期への進出を念願としているので通達作成に当たつてはこの点もよろしく願いたい旨依頼して請託した(以下、第一回請託という。)。これに対し被告人佐藤は、「よく分つた。なおよく検討する」旨答えた。

なお、藤原も、同四七年四月初めころから被告人佐藤に対し、国内線への大型機の導入は沖繩線を含め同四九年度からとされたい旨の陳情を重ねるとともに、全日空の近距離国際線不定期の仕向地として「東南アジアのほかに、グアム、サイパン、シベリア(ハバロフスク)などをお願いしたいので、そのように具体的な地名を入れてほしい」旨陳情していた。

二  第二回請託(昭和四七年五月八日ころ)とこれに至る経緯

1被告人佐藤は、若狹及び藤原らの前記の請託、陳情並びに東亜国内航空の要望等を勘案し、昭和四七年四月中旬ころから、

① 全日空の近距離国際不定期(またはチャーター)の範囲を「当面東アジア(シベリヤ地方を含む。)、東南アジア、サイパン及びグアム」とする

② 国内線への大型機の投入時期につき、沖繩返還後の那覇を含め、同四九年度以降認めるものとする

③ 東亜国内航空について、同四七年度にローカル線の一部のジェット機による運航を認め、その幹線参入時期は、同四九年度をめどとし、その際の投入輸送力は実働三機程度とすることとする

④ 幹線及びローカル線における輸送力の増強は、各路線の総合平均利用率が幹線約六五パーセント、ローカル線約七〇パーセントを越える見通しが明らかになつた場合に認めることとする

⑤ 幹線輸送力の増強は

(第1案) 東亜国内航空が幹線に参入するまでは全日空により、参入後同五一年度までは東亜国内航空により増強する。同五二年度以降は三社協議のうえ決定する

(第2案) 同四七、四八年度は全日空二、日航一の比率で、同四九ないし五一年度は東亜国内航空三、全日空二、日航一の比率で増強する。同五二年度以降は三社協議のうえ決定する

(第3案) 右第2案の「同四九ないし五一年度」を「同四九ないし五二年度」とし、「同五二年度以降」を「同五三年度以降」とする

のいずれかによる

⑥ ローカル線の二社による運営は、同四八年度以降同五一年度までの間、基準を上回る路線のうちから毎年各社二路線の範囲内で行うものとし、同五二年度以降は両社協議のうえ決定するものとする

等を主たる内容とする考え方を橋本(昌)に示して検討させ、同四七年四月下旬ころ、同人をして右の考え方に基づく試案(以下、第二次佐藤案という。)を浄書させ、これを同年四月二八日に開かれた航対委メンバー数名の会合において提示したが、了承を得られるに至らなかつた。

2ところで、これより先昭和四七年四月中旬ころ、住田ら航空局の事務当局幹部は、橋本(昌)の報告により、被告人佐藤が右のような内容の通達案を作成しようとしていることを知り、これを検討した結果、

① 国内幹線の大型化時期は同四九年度ころが相当ではあるが、需要の見通しいかんにより日航と全日空の両社協議が整つた場合はこれを早める場合もあり得るし、沖繩線については同四七年度からの投入を認めるのが適当である。

② 全日空の近距離国際線につき「不定期」を認めるのは「チャーター」に限定している閣議了解を逸脱するものであり、また東南アジア以外にも仕向地を拡大しこれを明示することは、我が国の国際チャーター受入政策にも支障を生じ、不適当である

③ 幹線増強シェアをあらかじめ三社に数字的に割り振ることは、行政作用により利権配分をするに等しいだけでなく、その配分内容は余りにも急激に日航のシェアを押さえ東亜国内航空、全日空のシェアを伸ばそうとするものであつて到底容認し難い

との事務当局のかねてからの見解を改めて確認し、右のような基本的考え方に立ち、ほぼ前記第一次佐藤案の事務当局改訂案に沿い、なお国内線への大型機の導入は同四九年度とする事務当局対案を作成して被告人佐藤に示したが、同被告人は自己の見解に基づき、前記のような第二次佐藤案を作成するに至つたものである。なお、同案において、全日空の近距離国際線につき、「不定期(またはチャーター)」との表現を用いたのは、橋本(昌)から閣議了解の趣旨に則り「チャーター」とするよう指摘されたが、「不定期」という言葉を残したいとの被告人佐藤の意向に基づくものであつた。しかして、同四七年四月末ころ、被告人佐藤から同案を示された内村は、右の事務当局見解に基づき反対意見を述べた。

3全日空では、昭和四七年四月末ころ、第二次佐藤案を入手した。若狹は、これを見て、全日空の近距離国際不定期及び国内線の大型機投入時期等につきおおむね自社の主張が容れられたとして評価したが、なお東亜国内航空偏重の傾向がみられ、更には日航からの強い巻き返しも予想されたことなどから、全日空の利益擁護のためこの段階で改めて被告人佐藤に働きかけておく必要があると考え、配慮を求めたい事項、すなわち、

① 幹線の範囲は、日航法制定の趣旨に基づきこれを拡張すべきでなく、幹線の増便、増席は今後においては民業優先の方針で行い、東亜国内航空の幹線参入は日航の段階的縮小において実施し、東亜国内航空が幹線に参入するまでは全日空が増便、増席を行い、東亜国内航空が幹線参入を認められた時点以降の増便、増席は全日空と東亜国内航空平等にすること

② ローカル線のダブル・トラッキングの実施に当たっては慎重を期し、また、実施する場合は平等に相互乗入れを行うこと

③ 全日空は将来近距離国際定期へ進出することを含みとして、差し当たり近距離国際不定期の充実を行い、その運航範囲については、従来のごとき日航による制限的取扱いを改めて、一定の地域範囲については自由に運航し得るものとすること

④ 大型機の国内線導入は同四九年度以降とすること

等を列挙し、「これらの施策を実施していただきたくお願い申し上げる」との趣旨を記載した「政務次官佐藤孝行殿」宛、同四七年五月八日付「航空企業の運営体制について(願)」と題する書面を作成し、同四七年五月八日ころ、藤原と共に運輸政務次官室に被告人佐藤を訪ね、若狹において同被告人に右書面を手交し、「全日空としては、幹線及びローカル線における東亜国内航空の参入については、前と同様にお願いしたい。大型機導入時期は四九年度としていただき有り難い。しかし日航は、現在もなお沖繩線については本年度からと主張し話合いもまとまらないので、この点についても是非四九年度以降とされるようお願いする。これらのことは文書にしてきたから御検討願いたい」などと述べ、右書面記載の全日空の要望を通達中に定められたい旨依頼して請託した(以下、第二回請託という。)。被告人佐藤はこれに対し、「そうか、こちらでもよく読ませてもらつてよく考えよう」と答えた。

三  第三回請託(昭和四七年六月下旬ころ)とこれに至る経緯

1日航は、被告人佐藤から第一次佐藤案及び第二次佐藤案に対する意見を徴されたことはなかつたが、昭和四七年四月末ころ監督課長山本から第二次佐藤案を入手し、これに対する反論を表明する必要があると考え、同社経営管理室長橋爪孝之において同年五月八日ころ、第二次佐藤案に対し、

① 沖繩復帰後の那覇を国内幹線に含めること

② 全日空の近距離国際線については、日航との提携のもとに行うチャーターに限定し、その範囲は、韓国及び東南アジアとし、地点及び便数については日航と協議のうえ運営を行うものとすること

③ 幹線及びローカル線における輸送力の増強は、需要の見通しを勘案し、その伸び率の範囲内において、企業間で協議のうえ決定するものとすること

④ 国内幹線へのジェット機の投入は、原則として同四九年度以降認めるものとするが、沖繩については同四七年度から認めるものとし、その他の国内幹線においても企業間で協議のうえ合意に達した場合は同四八年度から認めるものとすること

等の修正を加えるべきことを骨子とする同四七年五月八日付「航空企業の運営体制について」と題する書面(以下、日航案という。)を作成し、同四七年五月一二日ころ、日航社長朝田自らこれを被告人佐藤に手交して第二次佐藤案の修正を求めた。

2昭和四七年五月中旬ころ運輸事務次官町田は、被告人佐藤から「私の案を批判ばかりしていないで自分の案を作つてみてくれ」と言われ、内村航空局長ら航空局幹部とも相談しながら、事務次官の立場において対案を検討した結果、基本的には前記のような事務当局の見解を骨子としつつ、

① 東亜国内航空の幹線参入後においては、同社の収支の状況を考慮し、先発企業特に日航の幹線における輸送力の増強について、利用者の利便を勘案しつつ調整を図るものとすること

② 全日空による国際チャーター航空の運営は、閣議了解の趣旨に基づき運賃等についての日航との調整は必要であるが、その他についてはできるだけ自由な運航が可能なようにするとともに、近距離の範囲も余裕機材が通常航行し得る範囲とすること

等、ある程度第二次佐藤案に妥協する考え方を盛り込んだ試案(以下、町田試案という。)を作成し、これを被告人佐藤に手交した。

3しかしながら、被告人佐藤は、第二次佐藤案において削除した国内幹線の定義を復活させ、その範囲に那覇を含めることとしたほかは、右の日航案及び町田試案には格別の配慮を示すことなく、第二次佐藤案において幹線輸送力の増強基準として並記した三案のうち第3案を採用することとし、その他は第二次佐藤案とほぼ同一趣旨の案(以下、第三次佐藤案という。)を作成し、これを最終案として昭和四七年五月二六日開催の航対委の会議に提出した。航対委は同席上、航空三社から個別的に第三次佐藤案に対する意見の聴取を行つたところ、

(一) 日航社長朝田は、同四七年五月二六日付「航空企業の運営体制について(日本航空意見要約)」と題する書面に基づき、

① 全日空に「不定期」を認めるのは閣議了解逸脱であり、また、「チャーター」の急速な拡大も国際的に悪影響をもたらす

② 幹線需要の動向が予測困難な現時点で、今後六か年にわたり各社増便枠を設定するのは非現実的であり、かつ、利用者不在の行政である

とし、その他大型機導入時期、幹線定義等についても前記日航案に沿つた主張をし、第三次佐藤案には基本的に反対である旨意見を述べ、

(二) 全日空社長若狹は、「基本的には賛成である」としながらも、なお前記の同四七年五月八日付「航空企業の運営体制について(願)」と題する書面と同旨の同年五月二六日付「航空企業の運営体制について(要望)」と題する書面に基づき要望意見を述べ、

(三) 東亜国内航空専務取締役窪田は、「干天の慈雨」であるとして賛意を表した。

また、出席委員の第三次佐藤案に対する意見も賛否両論が激しく対立したため、航対委は、更に近日中に大臣、政務次官、事務次官の出席を求めて見解をただすこととしたが、丹羽大臣の病気等もあつて右予定は実施されるに至らなかつた。

4若狹は、第三次佐藤案に関し、幹線増強シェアを同案のような比率で三社に割り当ててもらうのが得策であると考えたが、これについては日航が激しく巻き返しに出てくることが予想されたので、昭和四七年六月下旬ころ運輸政務次官室に被告人佐藤を訪ね、同被告人に対し、「国内幹線に東亜国内航空を入れる場合、先日の航対委で示されたようにお願いしたい」などと依頼して請託した(以下、第三回請託という。)。これに対し被告人佐藤は、「それでは東亜国内航空を三、全日空を二、日航を一の割合でやるよう、なお考えよう」と答えた。

四  運輸大臣通達の成立(昭和四七年七月一日)とこれに至る経緯

1以上のように、第三次佐藤案につき、航空三社間なかんずく日航対全日空、東亜国内航空の間において見解が鋭く対立して収拾困難な見通しとなつたため、航対委委員長福永一臣(以下、福永という。)及び被告人佐藤らは、日航会長松尾に対し、航空界の大御所としての立場で調整に当たられたい旨を依頼した。そこで松尾は、昭和四七年六月二六日ころ、それまで争点とされていた事項につき、

① 全日空の国内線については、「近距離国際チャーター」とし、その地点は国際問題を十分考慮しつつ、日航と協議して決定するものとする

② 国内幹線の輸送力増強の各社への割振りは共存共栄の基本原則に則り、後発企業の育成を勘案しつつ各社協議してこれを決定する

③ 国内線への大型機の投入は、同四九年度以降認めるものとするが、沖繩線は例外として同四七年度より投入し得るものとし、その他の国内幹線においても共同運航等の方法により共存共栄を図ることが可能な場合には、各社協議のうえ、投入時期の繰上げを図ることを妨げないものとする

ことを主たる内容とする調整案(以下、松尾調整案という。)を作成し、これを被告人佐藤に手交した。

2そのころ被告人佐藤は、松尾調整案につき町田と協議した際、同人に対し、

① 全日空の近距離国際チャーターの地点をはつきりせよ

② チャーターのみでなく将来不定期航空も考えられるとせよ

③ 幹線輸送力増強の割振りを各社協議して決定するのでは、航空局事務当局がこれに干渉する余地が出てくるので、大臣覚書で増便基準を決めてもらいたい

④ 日航の要望通り沖繩線の同四七年度大型化を認めるのならば、全日空が強く希望しているチャーターの地点明示と交換にこれを認めたらどうか

等の修正意見を述べ、これに従つて松尾調整案を修正したうえ成案とするよう主張した。

3そこで、町田は、被告人佐藤の右主張に一部譲歩し、松尾調整案に、

① 全日空の近距離国際チャーターの地点の決定について「日航と協議して決定する」とある部分を削除する

② 右項目に「なお将来不定期航空の運営についても検討するものとする」との文言を付加する

旨の修正を加え、退官当日の昭和四七年六月三〇日ころ、これを内村、山本に示して意見を求めたところ、同人らは、右②の修正を加えることは閣議了解の逸脱となるおそれがあるとして反対し、これを削除するという線で更に被告人佐藤と折衝することとなつた。

4そこで内村及び山本は、同年七月一日被告人佐藤に対し、松尾調整案に対する町田の修正案を示し、全日空の国際線につき「なお、将来不定期航空の運営についても検討する」との点は閣議了解の具体化として明示するのは不適当であるので削除したい旨具申したが、同被告人は、将来全日空に近距離国際不定期便の運営を認める含みを残すため、あくまで「不定期」という文言に拘泥し、対案として「なお、近距離国際線の運営には、チャーター方式のほか不定期航空としての運営方式もあるが、現時点においては、チャーター方式による」との表現とすることを提案した。更に、被告人佐藤は、沖繩線について日航に昭和四七年度からの投入を認めるについても、全日空との協議を要するとすべきである旨主張し、「投入の時期、便数等については企業間において協議のうえ決定する」との文言を付加することを提案した。内村らも右各提案を受け入れることとし、右のような全日空寄りの修正を加えたうえでこれを運輸大臣通達の成案とし、同日運輸大臣丹羽の決裁を得、同大臣は同日航空会社三社長に対し右通達を示達した。

右通達は、

① 全日空は、国内幹線及びローカル線の運営に主力を注ぐとともに、逐次近距離国際チャーターの充実を図る。近距離国際チャーターの地点については、国際問題を十分に考慮しつつ決定する。なお、近距離国際線の運営には、チャーター方式のほか、不定期航空としての運営方式もあるが、現時点においてはチャーター方式によることとする

② 東亜国内航空については、同四七年度において一部ローカル路線のジェット機による運航を認め、同四九年度をめどとして実働三機程度の国内幹線のジェット機による自主運航を認める

③ 国内幹線における輸送力増強の各社への割振りは、共存共栄の基本原則に則り、後発企業の育成を勘案しつつ、各社協議して決定する

④ 国内ローカル線の二社による運営は、同四八年度以降同五一年度までの間、毎年二路線の範囲内で行う

⑤ 国内線への大型機導入は、同四九年度以降認める。ただし、沖繩線については同四七年度から投入し得るものとし、投入の時期及び便数については企業間において協議のうえ決定する。その他の国内幹線においても共同運航等の方法により共存共栄をはかることが可能な場合には、各社協議のうえ投入時期の繰上げをはかることを妨げない等を主たる内容とするものであつた。

第五  被告人両名の職務権限

一  被告人橋本

1運輸省は、運輸に関する基本的な政策及び計画につき企画立案し(運輸省設置法四条一項一四号の二)、航空運送事業を免許し、これらの事業の業務に関し認可をし、又は必要な命令を発する権限を有し(同法四条一項四四号の九)、航空局において、航空運送事業に関する免許又は認可に関する事務(同法二八条の二第一項一三号)、日航に関する認可に関する事務(同法二八条の二第一項一四号の二)並びに所掌事務に関する事業の発達、改善及び調整に関する事務をつかさどつている(同法二八条の二第一項一七号)。

2運輸省の長である運輸大臣は、定期航空運送事業者の事業計画(「イ路線の起点、寄港地及び終点並びにそれら相互間の距離、ロ使用航空機の総数並びに各航空機の型式及び登録記号、ハ運航回数及び発着日時、ニ整備の施設及び運航管理の施設の概要」〈航空法一〇〇条二項、同法施行規則二一〇条一項八号〉)の変更の認可権限を有する(航空法一〇九条一項)。そして、定期航空運送事業者が、新機種を選定しこれを路線に就航させるについては、使用航空機の総数、型式及び登録記号の変更を生じ、また運航回数、発着日時、整備の施設等も変更をきたすところから、当然に右事業計画を変更することが必要であり、したがつて、これについて運輸大臣の右認可を受けなければならない。

3また、運輸大臣は、日航が新たに航空機を有償で取得することを認可し、更に日航の毎事業年度の事業計画、資金計画、収支予算及びこれらの変更に関し認可する権限を有し(日本航空株式会社法〈以下、日航法という。〉一二条、一二条の二第二項)、通常前者を「取得認可」、後者を「認可予算の認可」と略称している。したがつて、日航が新機種を選定取得し、これを就航させる場合は、前記の定期航空運送事業者としての事業計画の変更認可を受けるのに先立つて、日航法に基づく航空機の取得認可、当該事業年度の認可予算の認可又はこれらの変更認可を受けなければならない。

4運輸大臣は、前記定期航空運送事業者の事業計画の変更申請がなされた場合は、「一 当該事業の開始が公衆の利用に適応するものであること、二 当該事業の開始によつて当該路線における航空輸送力が航空輸送需要に対し、著しく供給過剰にならないこと、三 事業計画が経営上及び航空保安上適切なものであること、四 申請者が当該事業を適確に遂行するに足る能力を有するものであること」等を審査しなければならない(航空法一〇九条二項、同法一〇一条一項)こととされており、また、日航法による前記航空機の取得認可申請、毎事業年度の認可予算の認可又は変更認可申請がなされ、これを認可しようとするときは大蔵大臣に協議しなければならない(日航法一三条)こととされている。

5運輸大臣は、以上に掲げた運輸省設置法、航空法及び日航法の各規定に基づき、日航その他の定期航空運送事業者に対し、新機種の選定取得及び路線への就航時期等について行政指導を行う権限を有するものである。そして、若狹の被告人橋本に対する前記請託は、同被告人の運輸大臣としての右職務権限に基づき、昭和四七年度から国内線に大型機を導入すべく準備を進めている日航に対し、その導入時期を延期するよう行政指導をされたい旨を依頼したものである。

二  被告人佐藤

1運輸大臣は、前記のとおり、運輸省設置法、航空法及び日航法の各規定に基づき、定期航空運送事業者の事業計画の変更の認可、日航の航空機の取得及び同社の認可予算の認可等の権限を有するほか、新たな定期航空運送事業につき路線ごとの免許(航空法一〇〇条一項)、不定期航空運送事業の免許(同法一二一条一項)の権限を有する。そして、運輸大臣は、運輸省部内に対し、その所掌事務について命令を発して行政上の指針を示す権限を有するのはもとより、右の各規定に基づき、日航その他定期航空事業者に対し、免許を受けていない路線への航空機の就航、新機種の既免許路線への就航時期、増便等について行政指導を行う権限を有するものであつて、前記のように、昭和四五年一一月二〇日の閣議了解事項を具体化した施策を運輸大臣通達に取りまとめて文書化し、運輸省部内の今後の航空行政の準則とするとともに、航空三社に示達して行政指導を行うことは運輸大臣の右職務権限に基づく行為である。

2運輸政務次官は、運輸大臣を助け、政策及び企画に参画し、政務を処理する等の権限を有する(国家行政組織法一七条一項)ものであつて、運輸大臣の右通達の策定に参画することは運輸政務次官の職務権限に属する。そして、若狹、藤原の被告人佐藤に対する前記請託は、同被告人が運輸政務次官としての右職務権限に基づき、右通達を策定中であることを知つて、その中に大型機の導入時期等に関する全日空の希望事項を定めるよう依頼したものである。

第六  若狹、藤原が被告人両名に対する金員の供与を共謀し、その実行方を丸紅に依頼したことなど

一若狹は、前記のとおり昭和四六年二月上旬ころ日航に対し大型機導入延期の行政指導が行われたのは、被告人橋本が若狹の同被告人に対する前記請託を受け入れ、その趣旨に沿つて日航の計画していた同四七年度からの大型機の国内幹線への導入を運輸大臣の権限で延期させるよう運輸省事務当局に指示してくれた結果であると理解し、同被告人に感謝の念を抱いていた。

また、若狹は、被告人佐藤が運輸政務次官として立案に当たつた前記同四七年七月一日付運輸大臣通達において、大型機の国内幹線導入時期が同四九年度以降と明示され、東亜国内航空の国内幹線参入やローカル線のダブル・トラッキングの実施についても全日空に著しい被害が及ぶことのないよう配慮され、更に全日空の近距離国際線運営についても、同四五年一一月二〇日の閣議了解に示されていたチャーター便運航に関する制約文言がはずされているうえ、将来はチャーター便にとどまらず、近距離国際不定期便の運航をも認める含みをもつた表現が取り入れられている点は、若狹、藤原の同被告人に対する前記請託の趣旨に沿うものとしてこれを評価するとともに、右立案の過程において、成案には至らなかつたものの同被告人が全日空の要望をほぼ全面的に採用した草案を作成するなど、若狹、藤原の前記請託を好意をもつて受け入れてくれたことに感謝の念を抱いていた。

二ところで、全日空では国内幹線に新たに導入すべき大型機の機種選定作業を行つた結果、昭和四七年一〇月二八日に開催された幹部役員会において、右新大型機としてL―一〇一一を採用することを内定し、正式決定は同月三〇日に予定されている取締役会で行うこととなつた。そこで、若狹は、L―一〇一一の採用を機に、被告人橋本及び同佐藤に対し、前記各請託に対する謝礼及び将来とも全日空のために好意ある取扱いを得たいとの趣旨で金員を贈り、なお併せてその余の自民党の国会議員数名にも全日空のために好意ある取扱いを得たい等の趣旨で金員を贈つてあいさつをすることとし、右金員供与の方法として、丸紅又はロッキード社にその資金を出捐させたうえ、これを丸紅側の手によつて全日空の名で被告人両名ら右各国会議員に届けさせることを企図し、右幹部役員会を開催した同四七年一〇月二八日の午後、全日空社長室において、藤原に対し、契約の最終的な詰めとして、全日空がL―一〇一一に決めたときは、丸紅において、幹事長橋本(被告人)、官房長官二階堂進(以下、二階堂という。)、運輸大臣佐々木秀世(以下、佐々木という。)、航対委委員長福永、運輸政務次官加藤六月(以下、加藤という。)及び自民党政務調査会交通部会長佐藤(被告人)に全日空の名で金員を届けること、及び外二点のロッキード社に対する要求事項について、丸紅側と折衝するよう指示し、右六名に対する供与資金は丸紅、ロッキード社のいずれに調達してもらつてもよく、また、供与すべき金額については、右六名にもそれぞれ格というものがあり、幹事長、官房長官が各五〇〇万円、大臣が三〇〇万円、交通部会長、航対委委員長、政務次官が各二〇〇万円というところだろうが、丸紅の方が専門家もおりよく知つているから、丸紅と相談して決めるのがよい旨を言い、更に、右六名に金員を届ける際は、全日空はトライスター(L―一〇一一のこと)に決めたので、全日空の依頼であいさつに来た旨を告げるべきことを丸紅側に伝えるよう、また、右各要求事項については、同月三〇日午前一〇時ころまでに諾否の返答をもらうよう指示し、藤原は、若狹の被告人両名ら六名に対する金員供与の右趣旨を察知したうえこれを了承した。そして、若狹は、藤原に右指示をした後、同日もしくは翌一〇月二九日の午前中、L―一〇一一の売込みに丸紅の担当者としてその衝に当たつた同社常務取締役大久保利春(以下、大久保という。)の自宅(神奈川県逗子市所在)に電話をかけ、L―一〇一一の採用内定を伝えるとともに、契約の最後の詰めについて藤原と打ち合わせてもらいたい旨連絡した。

三翌一〇月二九日夜、藤原は、大久保の意向を受けた丸紅輸送機械部副部長松井直(以下、松井という。)と自宅近くの旅館で会い、全日空の右各要求事項を伝えたが、被告人両名ら右六名に対する金員供与の点については、若狹の意向として、全日空がL―一〇一一の採用を決定したときには、被告人橋本、二階堂、佐々木、加藤、被告人佐藤及び福永の六名に対し、丸紅又はロッキード社の負担でしかるべきあいさつをしてもらいたいこと、供与すべき金額としてはそれぞれの格に応じて、一応二〇〇万円から五〇〇万円ぐらい、あるいは三〇〇万円から七〇〇万円ぐらいを考えているが、最終的には丸紅の方で、右のような全日空の考えを参考にして決めてもらえば結構であること、金員を届ける際には、相手方に、全日空がトライスターに決めたので全日空から言われてごあいさつに来た旨を言つてもらいたいことを話し、なお、右各要求について、翌三〇日全日空の取締役会が開かれる前に回答を得たい旨を要請したところ、松井は、直ちに右旅館から大久保の前記自宅に電話をかけ、同人に対し、藤原から全日空の右各要求があつた旨を伝え、なお、被告人両名ら六名に供与すべき金額は、被告人橋本、二階堂が各七〇〇万円、その他の四名が各四〇〇万円で合計三、〇〇〇万円であると伝えた。

四そこで、大久保は、予定どおり翌三〇日全日空にL―一〇一一の採用決定をしてもらうためには、ロッキード社に右の「外二点」の要求に応じさせ、また、右六名に対する金員供与の点も、ロッキード社にその資金を支出させたうえ丸紅の手によつてこれを実行するほかはないと考え、直ちに、当時L―一〇一一の売込みのため来日しホテル・オークラに滞在中のロッキード社社長アーチボルド・カール・コーチャン(以下、コーチャンという。)に連絡をとつたうえ、深夜同ホテルに赴き、同人に対し、全日空から被告人両名ら六名に供与する三、〇〇〇万円を明朝一〇時までに用意してほしいこと及び右の「外二点」の要求があつたことを伝え、右金員を供与する六名の氏名及び三、〇〇〇万円が七、七、四、四、四、四の比率で配分供与される旨を告げ、L―一〇一一の受注に成功するには全日空の右各要求を受け入れる必要がある旨説得したところ、コーチャンはこれをすべて了承し、右三、〇〇〇万円については右指定の時刻までに大久保のもとに届けることを約した。コーチャンは、同年一〇月三〇日早朝ロッキード・エアクラフト(アジア)リミテッド社長兼日本における代表であるジョン・ウィリアム・クラッター(以下、クラッターという。)を電話でホテル・オークラの自室に呼び、同人の管理する現金のうちから三、〇〇〇万円を同日午前一〇時までに大久保に手交するよう指示し、クラッターはこれを了承した。

五一方、大久保は、コーチャンとの右交渉を終えるや直ちに前記旅館に待機していた松井にコーチャンが全日空の要求をすべて了承した旨を電話で連絡し、同夜都内のパレスホテルに一泊したうえ、同月三〇日午前八時ころ丸紅東京支店に出社して間もなくクラッターから三、〇〇〇万円を持参する旨電話連絡を受け、また、そのころ丸紅社長室秘書課長副島勲(以下、副島という。)に、間もなくクラッターが全日空の依頼による金を届けてくるが、その金を全日空に関係のある先生方にお礼として配付してほしいと言われているので、秘書課で手伝ってもらいたい旨を話し、金員を供与すべき被告人両名ら六名の氏名と供与額を記載したメモを示した。副島は、上司である社長室長取締役伊藤宏(以下、伊藤という。)に大久保から右依頼のあつたことを報告したうえ、同日午前一〇時ころ、丸紅東京支店一五階の応接室において、クラッターから、大久保、松井の立会のもとにアタッシュケース入りの現金三、〇〇〇万円を受領して秘書課の金庫に格納保管し、伊藤にその旨報告した。大久保は、右金員の受領に立ち会つた後同支店六階の自室に戻つた際、来室したクラッターの依頼により、同所において同人が差し出した三〇ユニットを領収した旨が記載されているメモ用紙に署名して同人に手交した。その後間もなく、大久保は、伊藤に、全日空からの強い要請で政治家の先生方に三、〇〇〇万円を届けることを引き受けざるを得なくなつた旨話して社長室の協力方を求め、委細は松井が承知しているので、松井とよく打ち合せて、届ける際には全日空からのお礼であることを言つてほしい旨依頼した。その後、松井は伊藤のもとに赴き、同人に、今度トライスターに決まつたことで全日空がお世話になつた先生方へお礼をすることとなり、全日空の依頼で仕方なく先生方に金を届ける役を丸紅で引き受けることとなつたので協力してもらいたい旨頼むとともに、全日空の指定した被告人両名ら六名に対する配付金額については、全日空側から一応の案を示されたが、最終的には丸紅の判断に委ねるというのが全日空側の意向である旨を伝え、その場で伊藤及び松井の両名は、全日空からの右依頼の趣旨に基づいて配付金額を協議した結果、被告人橋本と二階堂に各五〇〇万円、佐々木と福永に各三〇〇万円、被告人佐藤と加藤に各二〇〇万円とし、残る一、〇〇〇万円は別途丸紅からの謝礼として総理大臣田中角榮に供与することを決めた。そのすぐ後、伊藤は副島を呼び、佐々木、福永に各三〇〇万円、被告人佐藤、加藤に各二〇〇万円を届けることを及び金を届けるときは直接本人に会つて全日空からのお礼である旨を述べて手渡すべきことを指示し、なお、二階堂及び被告人橋本には自ら届けることを告げた。

第七  罪となるべき事実

一被告人橋本は、前記のとおり昭和四四年一二月二七日から同四七年一一月一三日まで衆議院議員、その間同四五年一月一四日から同四六年七月五日まで運輸大臣の地位にあつたところ、前記のとおり、同四六年一月中旬ころ、運輸省運輸大臣室において、定期航空運送事業等を営む全日空代表取締役社長若狹から、全日空が大型機を国内幹線に投入することの可能な同四九年ころまで日航の同幹線への大型機投入を阻止するため、運輸大臣としての前記職務権限に基づき、同四七年四月から同幹線に大型機を投入する計画を有する日航に対し、全日空と投入時期についての話合いがまとまるまで同幹線への大型機の投入を延期するよう指導されたい旨の請託を受けたものであるが、同四七年一一月一日ころ、丸紅東京支店において、右請託の謝礼等として供与されるものであることの情を知りながら、若狹及び全日空経営管理室長藤原から前記の経緯により同人らの依頼を受けた丸紅社長室長取締役伊藤を介して、同被告人の秘書茂木幸治をして現金五〇〇万円を受領させてこれを収受し、もつて自己の右職務に関して収賄したものである。

二被告人佐藤は、前記のとおり昭和四四年一二月二七日から同四七年一一月一三日まで衆議院議員、その間四六年七月九日から同四七年七月七日まで運輸政務次官の地位にあつたところ、前記のとおり、同四七年四月中旬ころから同年六月下旬ころまでの間前後三回にわたり、運輸省運輸政務次官室において、右若狹及び藤原から、運輸大臣名で「航空企業の運営体制について」と題する同四五年一一月二〇日付閣議了解を具体化した通達を発する場合には、運輸政務次官としての前記職務権限に基づき、右通達中に、大型機の国内幹線導入時期を同四九年度以降とすること、東亜国内航空の国内幹線参入は日航の段階的縮小において実施し、東亜国内航空が同幹線に参入するまでは全日空が増便、増席を行い、東亜国内航空が同幹線に参入を認められた後の増便、増席は全日空と東亜国内航空に平等に与えること、ローカル線のダブル・トラッキングの実施においても全日空、東亜国内航空両社平等に相互乗入れを行うこと及び全日空は将来近距離国際定期航空へ進出することを含みとして当面近距離国際不定期便の充実を行うことなどを定められたい旨の請託を受けたものであるが、同年一〇月三一日衆議院第二議員会館三階三三九号室において、右請託の謝礼等として供与されるものであることの情を知りながら、右若狹及び藤原から、前記の経緯により同人らの依頼を受けた丸紅秘書課長副島を介して現金二〇〇万円を収受し、もつて自己の右職務に関して収賄したものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(法令の適用)

被告人橋本の判示第七・一、被告人佐藤の判示第七・二の各所為は、いずれも、行為時においては昭和五五年法律三〇号による改正前の刑法一九七条一項後段に、裁判時においては右改正後の同法一九七条一項後段に該当するが、右は犯罪後の法令により刑の変更があつたときにあたるから同法六条、一〇条により軽い行為時法の刑によることとし、その所定刑期の範囲内で、被告人橋本を懲役二年六月に、被告人佐藤を懲役二年にそれぞれ処し、被告人両名に対し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判の確定した日から各三年間それぞれその刑の執行を猶予し、被告人両名がその判示各犯行により収受した各現金はいずれも没収することができないので、同法一九七条ノ五後段を適用して、被告人橋本からその価額五〇〇万円、被告人佐藤からその価額二〇〇万円をそれぞれ追徴し、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文により主文第四項掲記のとおり被告人両名にそれぞれこれを負担させることとする。

(弁護人の主張に対する判断)

被告人両名は、捜査以来一貫して、本件各請託を受けたことを及び本件各金員の供与を受けたことをいずれも否認し、被告人両名の各弁護人も右各事実を全面的に争い、その論拠として多岐にわたる主張を展開している。そこで、弁護人らの主張のうち主要な論点について、当裁判所の判断を述べることとする。

なお、以下の記述では、証拠に関し次の略語を用いる。

一  証拠書類の引用にあたり、単に請求番号のみで表示する場合がある。

二  「検察官に対する供述調書」を「検察官調書」と略称する。

三  公判調書の供述部分又は公判準備における証人の尋問調書が証拠となるものについても、単に「供述」又は「証言」と記述する。

四  「一二二回」等とあるのは、「第一二二回公判」等の略称である。

第一  被告人橋本関係

一 「昭和四五年後半における日航の国内線大型化計画実現の動きと運輸省の対応」について(判示第三・一・1の関係)

1弁護人は、航空局は、日航の本件転用計画を承認したうえで本件取得認可を与えたものではない、すなわち、昭和四五年六月に航空局長に就任した内村及び監理部長に就任した住田は、日航の機材購入が大量に過ぎると考えこれを押さえていくとの方針で臨んでいたところ、同年一一月に至つて、同年一〇月二日付で既にボーイング社に対しB―七四七LR四機を仮発注していた日航から、その既成事実を盾に、一一月三〇日までに発注しないと価格が約一五億円高くなり、また、この機会に発注しないと将来必要とする時期に機材を取得できなくなるおそれがあるなどとして強硬に認可を迫られるに及び、航空局は、同年一一月末ぎりぎりになつて、同四七年度国内線転用を含む事業計画変更の認可については別途その段階で考えられる旨を通告したうえで、本件取得認可を与えたのであり、したがつて、右認可をもつて、日航の本件転用計画を承認していたものと言うべきではない旨主張する。

なるほど、住田(同四五年六月から同四七年六月まで監理部長)は、「私自身の意見は四七年度に国内線に大型機を入れることに積極的ではなく、そこまでは踏み切つていなかつたので、本件取得認可をするにあたり、取得した機材の使い方は別途検討するということで認可したつもりであり、日航に対してもその旨監督課長に指示して言わせたと思う。」旨の証言(一二二回)をしている。しかしながら、山元(同四三年七月から同四六年一一月まで監督課長)は、その証言において、住田から右のような趣旨の指示を受けたことや日航に対してその旨を伝えたことについては何ら触れていないのみならず、かえつて、「取得認可に至る過程で住田に要点は逐一報告して意見を伺つていたが、同人から非常に強くこうすべきではないかと言われた記憶はない。」旨述べている(一二一回)こと、日航関係者の証言等他の関係各証拠によつても右の趣旨が日航側に伝えられた形跡は全く窺われないこと、日航の判示五か年計画策定及び本件取得認可に関し、直接の担当部署である監督課の山元課長、橋本(昌)(同四五年七月から同五一年三月まで同課補佐官)及び当時同課管理第二係長であつた沖健二がいずれも判示認定に沿う証言をし、また、航空局が本件認可申請について大蔵省と日航法上の協議をするにあたり、航空旅客需要の増加及び空港の過密化などB―七四七LRの本件国内線転用の必要性を記載した「DC―八―六一型機(中古機#一〜二)の取得及びB―七四七型三機の国内線転用について」並びに「日本航空(株)の昭和四五年度機材発注計画について」と題する各書面等の説明資料(甲二12中)を作成してこれを大蔵省に提出していること、本件取得認可申請について運輸大臣の代決権者として最終決裁権を有する内村(同四五年六月から同四八年九月まで航空局長)が、「日航の五か年計画中の本件転用計画について当時航空局としては了承していたと思う。」、「国内線への転用を前提とする本件取得認可についてもあまり疑問を抱かずに認めたというふうな気がする。」旨の証言(一二一回)をしていること、住田は前記のように証言する一方、「前任の航空局長時代から引続き四七年度大型機導入が必要であるとの方向で作業を進めており、日航が一方的に買うことを決めたわけではなく、監督課長もある程度の了解を与えて進んでいた仕事であることを考慮に入れて取得認可をした。」(一二二回)とか、「(住田の検察官に対する同五一年九月二日付供述調書には、私が監理部長に着任した四五年六月ころ、既に航空局は四七年度に大型機を国内線に導入する方向で動いており、私はこれに異論を持つていたが、航空局の大勢が四七年度導入となつていたし、日航側からも右の認可を強く要求された事情もあつて、結局この取得認可を決裁することになつたという供述記載があるが、どうなのか、との問に対し)結果、そういうことでしよう。」(一二二回)と証言をし、また、前記説明資料等が添付された本件認可の決裁書(甲二12中の「空監第六二四号」の決裁書)に自ら決裁をしていることなどに徴すると、住田が個人的見解として日航の本件転用計画に異論を持つていたとの点はともかく、航空局としては本件転用計画を了承し、これを前提として本件取得認可を与えたものと認めるのが相当である。

2また、弁護人は、日航においても本件転用計画を真に実現する意図であつたか否かは極めて疑わしい、すなわち、本件転用計画策定の最大理由は、元来「東京―大阪」路線にB―七四七LRを就航させることにあるとされていたにもかかわらず、大蔵省から右路線に就航させないこととの条件が出されるや、日航は急拠転用予定の三機全部を「東京―札幌」路線に就航させるとの修正案を航空局に提出し、その承認を得るための形式を整え、あまつさえ、昭和四五年一二月一四日付で、同路線のほか当初の計画には全く存しない「東京―福岡」路線にも就航させるとの再修正案を同局に提出していること、同四四年一二月航空機の騒音を問題として大阪国際空港訴訟が開始されて以来、各航空会社では大型機種選定にあたり同空港乗入れの可否が重大な関心事となつていた折から、本件転用計画策定に際し、「東京―大阪」路線にB―七四七LRを就航させるとの計画が実行可能であるとはにわかに言い得る状況になかつたこと、日航は、同四六年二月上旬松尾日航社長が記者会見で大型機の国内線導入時期を当初予定の同四七年度より一年前後延期する旨の談話を発表し、しかも同月上旬運輸省が大型機の導入時期を延期させようとして日航及び全日空に対しいわゆる「問合せ」を行つた後であることが明らかな同月二八日において、なおも一五、一六号機についてあえて正式購入契約を締結していることなどの諸事実に徴すれば、日航では、B―七四七LRの価格の安いうちに、なにがなんでもこれを購入したいという強い意図のみを先行させていたことが明らかに窺い知れるのであり、したがつて、日航が本件転用計画を真に実現する意図であつたか否かは極めて疑わしい旨主張する。

しかしながら、判示認定の本件取得認可に至る経緯及び判示(第三・三)認定のように同四六年二月上旬のころ運輸省が同四七年度からの国内線の大型化を見合わせるようにとの行政指導を行つたのに対し、日航が強く反発してるる反論を重ねていた状況に照らせば、日航が同四七年度にB―七四七LRの国内線転用が必須であるとしてその実現を強く希望していたことは明らかであると言わなければならない。もつとも、日航が、B―七四七LRの投入予定路線を、当初の「東京―大阪」及び「東京―札幌」から「東京―札幌」のみに、その後更に「東京―札幌」及び「東京―福岡」にと順次計画を変更したことは判示認定のとおりであるが、橋本(昌)が「右のように計画を変更したとしても、それは空港の過密が特に深刻であつた東京について、これを緩和する観点から筋の通つた考え方である。」旨(一一五回)、また、前記沖健二が「一番空港が混雑していたのはなんと言つても東京であり、空港の発着回数の軽減という意味では、東京―大阪、東京―札幌の両方の場合と東京―札幌だけの場合とではほとんど変わらない。」旨(二五回)の証言をそれぞれしていること及び判示認定のように現に当時東京国際空港の輻輳が激化し処理能力が限界に達していたことなどに徴すれば、日航が右のように投入予定路線を変更したことをもつて、同社に本件転用計画を実現する真意がなかつたものとは言えない。また、関係各証拠によれば、同四五年一一月末日の発注期限を外すと機材価格が高くなるという問題があつたことは認められるが、そもそも航空会社が一機九〇億円余(前記説明資料参照)もする機材をこれが確実な投入計画もないままに発注することは通常あり得ないと考えられるから、右のような価格上昇問題があつたからといつて、日航に本件転用計画を実現する真意がなかつたものとは言えないし、その余の弁護人の主張を考慮しても、判示認定を左右するに足りないものと言わなければならない。

二 「昭和四五年後半における全日空の大型機導入準備体制の実情と同四七年度導入実現の見通し」(判示第三・一・2の関係)、「全日空が日航の国内線大型化計画実現の動きを了知したこととこれに対する全日空の対応」(判示第三・一・3の関係)及び「若狹の被告人橋本に対する請託」(判示第三・二の関係)について

当裁判所は、前掲各証拠を総合し、右判示各事実を認めたものであるが、弁護人の所論にかんがみ、まず、当裁判所が右各事実を認定した理由を補足して説明し、その後弁護人の主張に対する判断を示すこととする。

1当裁判所が判示各事実を認定した理由の補足説明

若狹の被告人橋本に対する本件請託に関し、判示認定に沿う直接証拠として若狹の各検察官調書(乙62、甲三33、同40)があるところ、右各調書には、右請託を行つたこと及びこれに至る経緯について、「全日空では昭和四七年度に大型機を導入することを目標に機種選定作業を行つていたが、私が社長に就任した昭和四五年六月から七月ころには、全日空としては四七年四月からの導入は相当無理だという意見が強くなつていた。その最大の理由は、新大型ジェット機の整備担当者に対する訓練に最低二〇か月、できれば二年間が必要であるということであり、しかも、右訓練には現に働いている整備士を何十人ずつか交代で右二年間にメーカーへ派遺して全員に技術を身につけさせねばならないため、その間の穴埋めを考えなければならないのであるが、これは到底困難なことであつた。パイロットについても、新しい大型機材の導入に即応した訓練に相当の日数を要するだけでなく、人員を整える必要があつたが、これも困難な状態にあつた。一例を述べると、昭和四四年一二月にボーイング七二七用のジェットパイロットとフレンドシップ用のパイロットとして合計一〇〇名の外人パイロットを採用しようとしたが、乗員組合がこれに反対して三日間の全面ストライキをしたため、結局会社側が折れて、フレンドシップ用の四〇名を採用したにとどまつた。そのようなわけで、パイロットについても、日本人を養成するとか、自衛隊から採用するような方法によつて、ジェットパイロットを増員するしかない状態であつた。このようなことから、全日空自体の新大型ジェット機導入についての体制は整つていなかつたというのが実情であつた。更に、当時全日空では、昭和四六年初めころから二年間の予定で、従来就航している四〇人乗りのフレンドシップを六〇人乗りのYS―一一に入れ替えてフレンドシップをリタイヤさせ、従来YS―一一を使つていた路線にはボーイング七二七―二〇〇型あるいは七三七型を入れる予定を立て、これを実行しようとしていたので、そのことで手がいつぱいであり、大型ジェット機を迎えるためのパイロットや整備士の訓練には全く手が回らない状態で、その後四八年初めころからようやく訓練を開始したのが実情であり、また、右のようにフレンドシップのリタイヤ計画を実行しようとしていたので、四七年に強いて大型ジェット機を導入する必要性もなかつた。以上のような実情にあつたところから、私は、全日空としては新大型ジェット機の導入時期を先に延ばせば延ばすほど会社の業績面、運航面、整備面等あらゆる観点から都合がよいと考えていた。ところが、一方において、全日空の競争相手である日航は、四七年度から国内幹線に大型ジェット機を就航させる計画を立てていた。それは、四七年度に従来国際線に使用していたボーイング七四七ジャンボ機を国内幹線に転用し、四八年度から大型ジェット機を導入するというものであつた。日航がこのような具体的な計画を進めているということは、昭和四五年九月ころ、藤原君などが運輸省へ行つたとき、担当官から情報として聞いてきたということであつた。もし日航が四七年から飛行機の大型化を実現すれば、乗客は競つて新しい型の大型機に乗ることは明白であり、そうなると全日空は在来の航空機ではどんどん乗客を日航に吸い取られてしまい、効率の悪い営業をしなければならず業績が下がることは目に見えていたわけである。私は、全日空の渡辺副社長、藤原経営管理室長らに命じて、日航の副社長や経営管理室長などとの間で、両社の大型ジェット機の導入計画について、機種のほか整備、運航などの面における協調を保つための話し合いをさせたが、具体的にまとまつた事項はなかつた。私は、運輸省は先の航空局長の公表した方針に従い、日航だけ先に大型機の導入を認めるようなことはしないと思つていた。ところが、四五年一二月に入つて間もなくのころ、藤原君から、日航は運輸大臣の取得認可を受けて、新たに七四七型機を発注したうえ、既に国際線で使つている七四七LRを四七年度から国内幹線へ転用して就航させることになつたということを聞き、これは大変なことになつたと思つた。そこで、私は、そのころ全日空へ来た日航の松尾社長に直接確かめたところ、七四七LR三機を国内線に転用することは本当だと聞かされたので、日航、全日空が協議して、両社が納得できる時期に大型ジェット機を国内幹線に導入するよう考え直してもらいたいとお願いした。しかし、松尾は、全日空の立場も分るが、日航としては運輸大臣の機材取得認可を受けて進めている計画だから、これを簡単に変えて、四七年度導入を延期することは難しいと思うが、更によく検討してみようと言つた。私は、全日空としてはできるだけ導入時期を延期した方がよいと考えていたが、先に述べたようにフレンドシップをリタイヤさせた後、大型ジェット機を導入することを考えていたので、昭和四六年初めころから二年間の予定でフレンドシップをリタイヤさせつつ、その間、これが軌道に乗つたところで、大型ジェット機に関する整備員の訓練とかパイロットの増員なども並行させて行えばなんとかなると考えたので、四九年度導入ならよかろうと考えていた。なお、全日空が昭和四五年一二月に作成した五か年計画中の四七年度から大型ジェット機を導入するとの部分は、全日空としては実現困難なことであつたが、会社の努力目標とし、かつ、日航との対抗上掲げたものである。私は、松尾社長の話を開いて、この際運輸省から日航に対し、全日空と話合いがまとまつた時期に大型機を導入するよう強力な行政指導をしていただきたいとお願いしなければならないと思い、四六年一月中旬ころ運輸省へ行き、内村航空局長や住田監理部長に対し、日航は四五年一一月末ころ、運輸大臣から国際線用の七四七の取得認可を受け、それを理由に国際線で使用中の七四七LRを国用幹線へ転用するのだと言つているが、運輸省は従来の方針どおり、同一時期に入れるということで、まず両社間で相談させてもらいたい、両社間で話し合つた結果まとまつた時期に導入を認めるようお願いしたいし、日航に対して全日空と話し合うように行政指導をしていただきたいとお願いしたが、当時内村局長も住田部長も『結構ですよ、日航と話し合つてください』と言われただけであつた。そこで、私は、そのころ、大臣室で橋本運輸大臣に会つて、これまでの経過などを話して直接同大臣にお願いした。私が『全日空としては、できるだけ導入時期を先に延ばしたほうが都合がよいのです。昭和四九年ころまで延期できれば非常に好都合ですが、日航側はそれまで延期することは到底納得しないと思います。そこで全日空と日航の話合いがまとまつた時期に導入するよう、日航に対して行政指導していただきたい』と言つたところ、橋本運輸大臣は、『それはそうだな。入れるときは日航と全日空は同時にするのがいいと思うので、そのようにするようにしよう』と言つた。その際、私は、日航との話合いの経過なども話し、全日空の力だけでは、四七年度に大型ジェット機を国内幹線に導入するという日航の計画を変更させることは難しい実情にあるということを言つてお願いした。また、全日空としては、社内体制から見て、四九年以降にしてもらえば一番都合がよいのだが、四七年度導入を考えている日航が、そう簡単に四九年度まで延期することには納得しないだろうと思つたので、四九年度としながらも、両社で話合いがつけば、その時期から導入することを認めるということにしてもらえば結構であるという意味で言つたのである。私は、同大臣が私の話に耳を傾けてくれ、了解してくれたので、うまくいくだろうと思った。」旨判示認定に沿う供述記載があり、更に右請託後の経過に関し、「昭和四六年二月初めころ、航空局から、全日空と日航両社に対し、大型機の導入時期について、両社が話合いのうえで決めるよう、できれば導入を四九年まで遅らせるようにしたいという行政指導があり、四六年二月一〇日の全日空の常務会で右の問題を取り上げたが、その議事録の中で、私が『入れるときは一緒にという大臣の意向もある』という発言をしているのは、私が一月中旬に橋本運輸大臣にお願いしてきたときのことを言つているのである。しかし、全日空の常務会であるとはいえ、私が同大臣に行政指導をお願いしたことは、渡辺副社長や藤原君など一部の者にしか話していないので、この席上で詳細な経緯を知らせる必要はないと思い、右の程度に説明するにとどめたものである。全日空は二月二〇日ころ、運輸省に対して、四九年度導入に賛成である旨の回答をした。」旨の供述記載がある。また、藤原の各検察官調書(甲三29、同44、同46)には、右請託に至る経緯に関し、「全日空では昭和四七年四月からの導入をターゲットとして新機種の選定と準備を行つてきたが、四五年七月ころになるとその実現が困難と思われるようになつた。新機種を導入するには、機種の選定だけではなくて、その受入れのための準備、具体的に言うと、パイロットや整備士の確保や訓練、格納庫や整備の施設・機具の準備、地上支援機材の準備、グランドハンドリングの整備や準備などさまざまな準備が必要であり、しかも今回は在来機よりも格段に大きい大型機を新規に入れるものであり、それだけに我々にとつても新しい分野が多く、そのため、選定と準備には二四か月必要であるというのが私どもの一般的な考え方であつた。もちろん無理をすれば二四か月よりも短い期間で導入することも不可能というわけではないが、しかし短くなる分だけ準備が不十分ということで安全性の面が弱くなるわけであり、安全性を十分確保するためにはどうしても二四か月の期間が必要であると考えていたのである。ところが、選定準備作業が遅れ、四五年七月ころになると、もう四七年四月導入は難しいということになってきた。しかし、私どもとしては日航が四七年四月に導入するという線で準備を進めていると聞いていたので、なんとか無理をしてでもそれに間に合わせたいし、また、遅れるにしてもできるだけ遅れを少なくしたいと考え、準備を進めている各セクションに対して四七年四月導入を目標にして準備を進めるよう尻をたたいていた。それと同時に、私どもとしては、全日空の選定及び準備が遅れる以上、日航の方の大型機導入時期をなんとか遅らせるようにしたいと考えるようになつた。ところで、私は、四五年九月ころ、日航が五か年計画で四七年度には国際線用のB―七四七LRを国内線に転用して大型化し、四八年度には更に新機種を入れて大型化するという計画を立てていることを知り、若狹社長や渡辺に報告した。日航は既にその年の春にB―七四七LRを国際線に導入しており、それだけの運航整備の体制も出来上つていたので、これを国際ママ線に導入するのは容易であつたが、当時全日空では大型機の選定準備活動を始めて間がなく、しかも四七年四月の導入が無理だという状況にあつた。それで私どもとしては、日航に先を越されないため、同社と話合いをして同社の大型機導入を遅らせようと考えたわけである。四五年九月一四日の第四回本委員会で社長が『日航と相談して一緒にしたい、相談することは遅らせることだ、なるべく遅い方がよい』ということを言つているのがそれである。また、四五年一一月二日の第一四回総括部会で、導入時期については日航との対抗上昭和四七年八月以降の旗は下ろせないことが確認されたが、いわゆる二面作戦をとろうではないかという意見も出ている。これは、一方で大型機を昭和四七年度に導入する準備を進め、他方では日航と話し合い、導入を延期することに巻き込んでいくことである。しかし、全日空では四五年一〇〜一一月の時点では、もはや四七年四月導入が無理というだけでなく、四七年度内つまり四八年三月以前に大型機を導入することすら困難となつていた。企画室では、四五年暮ころに全日空の五か年計画を作つた際、大型機は四七年八月から四八年三月までの間に導入することとしていたが、これは対社内的な面で四七年度導入を宣言することによつて準備を進めている各セクションの尻をたたき、また対社外的には、全日空の準備が日航よりも大幅に遅れているという弱味を見せたくないという意味で建前を述べたのであつて、実際には準備の遅れなどから見て、私は四五年一〇月〜一一月ころにはもはや大型機導入は四八年度以降つまり四八年四月以降でなければ無理だという考えをもつていたのである。ところで、内村局長の要請で、大型機の導入に関し、全日空側は渡辺専務、日航側は稲益専務がそれぞれ代表となつて、四五年一一月中旬ころと同年一一月下旬か一二月初めころの二回にわたり、両社間の協議会が開催されたことがあり、私も出席したが、結局導入時期の問題の話合いは行われず、以後技術的問題について担当部門同士でデータや意見交換をするということになつてしまつた。四五年一二月初めころ、私は、日航が既に国際線で使用しているB―七四七LRを国内線に転用することを前提として、新たにボーイング社に対し四機のB―七四七LRを発注し、運輸省から取得認可を受けたという話を耳にし、日航が九月の五か年計画で立てた、国際線用LRを国内に転用して四七年四月から国内線を大型化するとの計画を具体的に実現し始めたことを知り、右計画が実現すると大変なことになると考え、すぐ若狹社長に報告しておいた。その後、若狹社長が日航の松尾社長に会つた際、LRの転用による国内線の大型化はやめてほしいと言つたがこれを拒んだという話を聞いたように思う。このようにして、両社の話合いだけで日航の大型機導入時期を延期させることができない状況になつた。それで、私どもは、このうえは運輸省に頼んで日航の大型機導入時期を遅らせるよう行政指導をしてもらうよりほかにないと考えるようになり、一二月に入つて、社長室で、若狹社長、渡辺とその旨話し合つた。なお、その当時の状況ではどんなに早くても四八年四月以降にしてほしいと考えていたし、更に私自身は安全性の面を十分確保するためには四九年度導入としてもらえば一番よいと考えていた。」旨判示認定に沿う供述記載があり、本件請託の点に関しても、「四六年一月に入つてから、社長室で、若狹社長から、橋本のところへ行つて頼んできたが、同人は大型機を入れるのは両社が同時でなければならんと言つていた、と聞いた。」旨の供述記載があり、更に、右請託後の経過に関し、「四六年二月初め航空局から大型機導入延期の行政指導を受けたが、当時全日空ではいくら早くても四八年四月以降でなければ大型機を導入できない実情であつたので、右行政指導は全日空にとつて本当に有り難いものであつた。全日空では四六年二月二〇日の常務会で右行政指導について議論した。この行政指導は元々全日空の方から運輸省に陳情してやつてもらつたものであり、延期についてのプラスとマイナスを今更議論する必要はなかつたのである。しかし、社長、渡辺、私などは、それまでも現実には四七年度導入は無理だとは知りながら、それを言つては社内の士気が落ちるし、導入が遅れるにしてもその遅れをできる限り少なくしたいという考えから、社内的には常々四七年度導入ということで尻をたたいており、そのころ作つた五か年計画でもなおも四七年度後半を導入時期としていたし、また、右陳情のことは私達三人のほかは知らないことであつた。それで、若狹社長にしても私にしても運輸省自体の独自の判断でこのような延期の行政指導があり、全日空はそのプラス面、マイナス面を十分判断した結果この行政指導に応ずるという形にしておきたかつたのである。右常務会で若狹社長が、入れるときには同時にという大臣の意向もあると言つたが、これは、同社長が橋本運輸大臣に会つて延期をお願いした際の同大臣の反応ということで言つたものである。」旨の供述記載がある。

ところが、狹狭、藤原はいずれも、当公判廷においては右各供述をすべて否定する趣旨の証言をしている。当裁判所は、若狹、藤原の検察官調書の右各供述記載は信用できるものと認め、これと他の関係各証拠を総合して判示各事実を認定したものである。以下、その理由を述べる。

まず、若狹、藤原の検察官調書の右各供述記載はさておき、他の関係各証拠を検討する。

(一) 大型機の機種選定作業の過程において、昭和四五年後半当時及びその後間もない時期に作成された検討資料及び会議メモ等全日空の内部資料には、次の各記載がある。すなわち、

① 昭和四五年七月八日開催の第一〇回総括部会の議事メモ(甲二77)には、渡辺運航課長が「二年は準備期間が必要だ、それはパイロットに教えるものを作るとということだ、トレーニングには十分な時間が必要だ」旨、及び水口が「昭和四七年四月といえば一年半しかないので、その意味では非常に苦しい」旨の各発言をしたことの記載

② 総括部会事務局作成の同四五年七月一四日付「新機種選定に関する総括(案)」(甲二28)には、導入時期として、「需要上は四七年七月導入が望ましいと見られるが、全般的な全日空の受入れ準備期間としては今のところ二年程度必要であるとの意見があり、更に検討しなければならない」旨の記載

③ 同四五年七月二八日開催の第三回本委員会の議事メモ(甲二63)には、「ハンドリング面ではどうか」との問に対し、藤原が「内部的外部的要因がある、内部的には二年間が欲しいとしている」旨、並びに若狹及び堤整備部長が「(社長)一番長い準備を要するのは整備ではないか。(堤)最低二年は必要だ、当社の特異性も考えねばならない。(社長)B七二七導入時とは異なる、日航はすぐにでも入れられる態勢にある、しかし全日空独自で準備し、それに時間が必要というのであれば、それだけの態度を示さねばならない、そして日航をその中に巻き込んでいくということだ」旨の各発言をしたことの記載

④ 同四五年九月二日開催の常務会の議事録(甲二48中)には、日航の国内線の機材計画の動きに関し、藤原、鈴木、若狹(社長)、山本、渡辺及び石田が、「(藤原)―一〇〇はくり上げリタイヤをし、六一と七四七を投入する、これはCABの飛行場部へ説明したものである、四八年以降は一寸信用しかねる点があり、訂正がされると思える、B七四七のオーダーについては、ファーム一二機に対し、五機を追加する動きがある。場合によつては、四六年にも投入があると思える。(鈴木)対応策はどうか。(藤原)九月一五日までのDC―一〇のオファーと合せて検討する、大型化を促進することになろう、なお、JALは、四七年初頭で一一機、四八年二一機、五〇年で四八機にする。(社長)SR六機は全部か。(藤原)四八年に六機SRを導入して、四七年の三機のBを転換するようだ。(山本)四六年に使うとしたらBだな。(藤原)そうである、昼のあいているときに使うだろうということだ、路線免許も楽だから計画になくても入つてくるということだ、こういう点を考えて対策をたてたい。(渡辺)来年の夏は入れてくるだろうな。(石田)今の六一と同じくらいには使つてくるだろう。(藤原)六一とはインパクトが全然違うだろう」旨の各発言をしたことの記載(後記⑤に掲げた各証拠を総合して考察すれば、右各発言記載は、当日の常務会で、藤原が日航の航空局飛行場部に対する説明資料から得た情報に基づき、日航の本件転用計画を含む機材計画を報告し、なお、場合によつては日航が四六年度から大型機を投入することがあり得ることを述べたところ、右の問題を巡つて、出席者の間でなされた各発言を記載したものであることが認められる。)

⑤ 総括部会事務局作成の同四五年九月七日付「大型機選定に関する纒め(資料)」(甲二29中)及び同資料に添付の総括部会事務局(企・企)作成の同月五日付「ANA・JAL機材計画(幹線)の比較」には、前回の本委員会(同年七月二八日)の以後に生じた外部情勢の変化の一つとして、「JALが次期幹線用大型機材としてB七四七SRを導入することが確実視される。しかも昭和四七年度導入の計画をもつており、羽田の混雑を大義名分にその時期を更に一年早めることもあり得る」旨、導入時期に関し、同四七年四月を目標とすることの問題点として、「受入れ体制準備期間を各専門部会で検討した結果、通常の準備期間として、営業本部では約二〇か月、航務本部では約二二か月(シミュレーター自社養成の場合三〇か月)、整備本部では約二四か月、経理部では最低一年以上要するとされている」旨(甲二38中の整備専門部会作成の同四五年八月七日付「大型機受入準備計画について」、コスト資金部会長作成の同日付「大型機の受入れ準備期間の検討について(回答)」、営業ハンドリング部会長作成の同月一二日付「大型機導入計画に伴う受け入れ準備について」及び運航専門部会長作成の同年九月一日付「新準第一五号(新機種導入準備必要期間提出の件)について(回答)」を総合すれば、右準備期間の記載は、総括部会事務局が、同四五年七月三一日付「新準第一五号」により各専門部会に対し、大型機の機種を決定した後これを路線に投入するまでに要する準備期間について照会し、そのころ各専門部会から書面によりその検討結果の回答を受けてこれを取りまとめたものであること、及び右各回答書には、検討資料を添付のうえ、航務部門では乗員の訓練等で二二か月〈シミュレーター訓練委託の場合〉又は三〇か月〈同訓練を自社で行う場合〉、整備部門では格納庫の建設、整備士の訓練等で二四か月、営業ハンドリング部門では客席の製作・取付、空港ビル内の施設の設置等で二〇か月、経理部門では資金調達等最低一年以上要する旨それぞれ記載されていることが認められる。)、「日航が航空局へ説明した資料によれば、日航の国内幹線の機材計画は、同四七年度は国際線用のB―七四七LR三機を転用して投入し、同四八年度にB―七四七SR六機を投入する等というものである」旨(なお、若狹〈七二回〉、藤原〈五五回〉の各証言等によれば、右の「ANA・JAL機材計画〈幹線〉の比較」中、日航の同四七年度の欄に「B七四七B・3」とあるのは、日航が国際線で使用しているB―七四七LR三機を同四七年度から国内線に転用することを意味することが認められる。)、及び右の日航の同四七年度大型機導入計画に関し、「幹線におけるJALとの機材格差は競争に重大な影響をもたらすことは明らかであり、JALの今回の大型機導入に対しては、これと対抗するか、阻止するかの二つの方法が考えられる。……JALと同等の機材(B七四七SR又はエアバス)で対抗する場合には、四七年四月の導入を引延ばすことは、当社にとつて営業販売上不利に落ち入ることが予想される」旨の各記載

⑥ 同四五年九月七日開催の第一二回総括部会における意見を取りまとめた総括部会事務局作成の同月九日付「総括部会意見要旨」(甲二29中)には、大型機導入時期に関し、「四七年導入案と四八年導入案があり、前者では、需要増への対処と日航との競争面からみて四七年度に導入する必要があるが、準備期間を考えれば、四七年八月運航開始が限度であり、決定が遅れれば八月運航開始は困難となるとされ、後者では、準備期間に余裕を見込む必要があり、また四六年度用ジェット機の大量購入により償却負担が四七年は高いため四八年にくり延べる方がよいとされている」旨、及び準備期間に関し、「営業本部では二〇か月、航務本部では二二か月、整備本部では二四か月、経理部では一二か月以上とされている」旨の各記載

⑦ 同四五年九月一四日開催の第四回本委員会の議事メモ(甲二64)には、鈴木、藤原及び大澤が、「(鈴木)準備が問題だ。(藤原)準備は内と外がある。特に外で空港ターミナルハンドリングが大きい、内部においては整本などから理想をいえば二〇カ月でそれも短縮できるということだ、しかしそれは一年半が最低というのが感じだ、航本はシミュレーターで自分のところでやると三〇ケ月かかるといつている。(大澤)大型ということで準備出来ることもあるが、機種が決まらないと準備出来ないことも多い」旨、並びに若狹が「日航と相談して入れるのならいつしよにしたらと思う、急ぐ必要はない、日航は四六年にはDC―八―六一でまかない、四七年より導入が常識的だ」、「相談するというのは遅らせることだ、なるべく遅い方がよい」旨の各発言をしたことの記載

⑧ 従来の総括部会及び本委員会の検討結果を取りまとめた総括部会事務局作成の同四五年一〇月三一日付「大型機懸案事項纒め」(甲二285中)には、大型機導入の時期に関し、九月七日の総括部会の意見では、「需要面、日航との競争面から四七年度に導入する必要がある(その場合準備期間を考えれば四七年八月が限度であり、決定時期が遅れれば更に遅れることもある)とする案と四八年度導入案がある」旨、九月九日(甲二64によれば、九月一四日の誤記と認められる)の本委員会の意見では、「慎重でありたいので日航との話し合いによつて導入時期を延ばしうるものなら延ばしたい、とされている」旨の各記載

⑨ 同四五年一一月二日開催の第一四回総括部会の議事メモ(甲二81)には、藤原及び松田が、大型機の導入時期について、「(藤原)昭和四六年については日航は本格投入までは考えていないようだ、しかし昭和四七年には本格的に国内線用機材として入れるようだ。(松田)慎重にということで日航と話合いをしながら、こちらではスタディやるという二面作戦でやる以外にない」旨の各発言をしたことの記載

⑩ 同四五年一二月一六日開催の常務会の議事録(甲二48中)には、全日空企画室が同年一二月に策定した判示経営五か年計画を審議するにあたり、藤原が「大型機は四七年度に入れるのは難しいと思うが、諸準備を進めるため四七年度夏に入れるという線でいきたい」旨、若狹が「航空局用と一本という理想は今回は難しい、社内的には現実的なものをもつとつめる、CABはあとから増すというのは難しいからひろげておいてよい」旨、その後で、藤原が「局用とする、四六年度予算には大型機以外これでいく、大型機は来年一、二月に決定する」旨の各発言をしたことの記載

⑪ 企画室企画課作成の同四六年四月二八日付「大型機に関する選定審議の総括」(甲二41中)には、導入準備期間に関し、「同四六年一月二八日の各専門部会最終報告書付属資料によれば、整備本部二〇か月、航務本部一九か月、営業本部一八か月とされている」旨の記載(右記載は、甲二26中の新機種選定委員会幹事総括部会長作成の同四六年一月二二日付「大型機に関する本委員会並びに総括部会合同会議開催の件」、「整備専門部会総括報告」、営業ハンドリング部会作成の同月二七日付「新機種選定検討報告」及び航務本部運航専門部会長作成の「新機種導入準備必要期間の再検討について」を総合すれば、同四六年一月二八日開催の第一回合同委員会〈本委員会と総括部会の合同会議〉に提出された各専門部会の報告書に基づくものと認められる。)

⑫ 同四六年四月二一日開催の第七回本委員会に提出された企画室企画課作成同月一九日付の右肩に「四六、四、二一No.7本委員会」と記載のある書面(甲二40中)には、導入する場合の社内体制の問題として、「大型機受入れ準備期間はミニマム営本一八か月、マキシマム整本二〇か月となつており、導入を四月中に決定しても自社で運航しうる体制がととのうのは四八年一月以降となる。乗員、整備等を外人に依存すれば運航体制は早期にととのえられるが、その場合でも営本の準備期間一八か月により制限を受け、四七年一一月以降しか運航しえない。また、乗員組合とは外人乗員の採用はウェットチャーターでも行わないと約束がされている」旨の記載

がそれぞれ存する。

(二) 昭和四五年後半当時全日空整備本部長であつた大澤信一は「整備の立場では、機種決定後導入までの間に、整備要員の教育、格納庫の問題、予備エンジン等保有機材の手当て等で大体二年、ぎりぎり詰めても二〇か月は必要であると考え、その旨申し述べていた。」旨(七回、八回)、また、右の当時全日空航務本部長であつた江島三郎は「航務本部の立場では、大型機導入の準備期間として、選定委発足当時は約二〇か月かかると見ており、四五年一二月当時でもやはり二〇か月あたりを見当にしてやつていたと思う。」旨(九回)の証言をそれぞれしている。

(三) 甲一456によれば、渡辺(昭和四六年五月から全日空副社長でそれ以前は同社専務取締役)が、昭和五一年六月一六日の衆議院ロッキード問題に関する調査特別委員会において、「やはり、いままでの飛行機と全く大きさも違うし、それからシステム全体が全く違う、したがつて相当準備期間が長く要る、無理をして早くやると、これはやはり安全性に問題も出てくるだろう。……そういうようなことで、やはり四七年四月に入れることは無理じやないだろうかということが、四五年七月の時点でいろいろ問題になつて、四五年九月には、四七年四月に入れることは無理である。したがつて四七年の後半に入れるようにしたらどうかという話が出たわけである。」旨の証言をしていることが認められる。

(四) 全日空の総合安全推進委員会事務局長兼新機種受入準備委員会事務局長であつた朝日龍幹の証言(一五回)、甲二46、同47、同112、同332、同353等関係各証拠を総合すれば、

① 全日空における大型機の乗員及び整備要員の養成方法

② 右乗員及び整備要員の訓練を実施しようとする場合、あらかじめこれに当てる余裕人員が確保されていることが必要であつたこと

③ 昭和四五年後半当時、全日空では同四三年ころからの航空旅客需要の急激な増加傾向に対処して供給力の増強を図るため、同四四年度に既に在来のジェット機を九機増機させており(「昭和45年の回顧と将来の計画」〈甲二353〉中三〇丁の「所有機材の推移」と題する〈表一七〉)、同四五年度にも在来のジェット機を五機増機の方針でこれを実行中であり(前同〈表一七〉及び「全日空輸(株)昭和45年〜47年度3ケ年中期経営計画付属資料」〈甲二332〉中三丁の「機材計画」)、更に同四六年度以降同四八年度にかけて、逐次FR―二七を退役させこれを在来のYS―一一型機(以下、YS―一一という。)で補充し、そのあとを在来のジェット機に置き換えるべく、同ジェット機を毎年一〇機前後あて増機する計画を立てていた(「全日空の経営五ケ年計画(昭和四六年度〜五〇年度)・昭和四五年一二月」〈甲二112〉の一九丁「機材計画」によれば、FR―二七については、同四六年度中に七機、同四七年度中に一一機をそれぞれ減機し、同四八年当初から全機退役させ、他方B―七二七及びB―七三七については、同四六年度中に一一機、同四七年度中に九機、同四八年度中に一三機それぞれ増機する計画となつている。)こと

がいずれも判示(第三・一・2・(一))のとおりであること、全日空では乗員組合との間で外人パイロットは採用しない旨の協約が結ばれており(前記(一)⑫に掲記の書面〈甲二40中〉にも、前記のように「乗員組合とは外人乗員の採用はウェットチャーターでも行わないと約束されている」旨の記載がある。)、また国内の航空会社間の不文律として同業他社からパイロットの引抜きは行わないことになつていたこと、全日空における乗員一般の養成方法は、訓練生からYS―一一の乗員へ、次いでジェット機(B―七二七又はB―七三七)の乗員へと順次昇格させる方式のいわゆる昇格体系を採用していたこと、訓練生の供給源は、主として、航空大学校卒業生、いわゆる自衛隊からの割愛及び自社養成(未経験者)であつたところ、航空大学校卒業生や、自衛隊からの割愛人員は限られており、また、訓練生をYS―一一の副操縦士とするのに、最短で三か月、自社養成の場合は約二年間を要したこと、YS―一一の乗員をジェット機の乗員に昇格させるためには、約三か月間米国の航空会社(P・S・A)へ派遣するなどして訓練を受けさせ、運輸省の試験に合格したうえ型式の限定変更を受けさせる必要があつたことが認められる。

(五) 内村(一二七回)、稲益(三八回))、藤原(六〇回)及び渡辺(八四回)の各証言に甲一420、同421、同422等関係各証拠を総合すると、日航と全日空は、航空局長の判示(第三・一・3・(三))示唆を受けて、同四五年一一月上旬ころ同判示の協議委員会を設置し、そのころ二回にわたつて協議を行つたが、大型機の各候補機種に関する情報交換等がなされた程度で、導入時期の調整に関する話合いには至らず、以後は両社の担当部門相互間で主として技術的問題について話合いを行うこととされたことが認められる。

(六) 監理部長であつた住田は「四五年一二月から四六年一月にかけてのころ、若狹がやつてきて、大型機を入れるということを含めて日航が国内線のシェアを増やそうとしていることを『日航はけしからん』という言い方で非難した。若狹としては、(全日空の)四七年導入はかなり難しいという気持は持つていて、やつぱり入れる時は一緒だという方針は崩さないんだろうなということが話題に出たと思う。日航(の導入時期)を延ばさせてほしいという直接的な(依頼という)感じで話が出たわけではないと思うが、(そういうところが若狹の本音ではないかと)そういう感じである。」旨(一二二回)、「(証人の同五一年九月二日付検察官調書には『(若狹の話は)全日空が大型機の導入を延期した場合に、日航の独走を押さえて、これに合わせて延期するように当局として指導してくれるでしようなと、こういう意味であつて、事実上導入延期の方向で行政指導してもらいたいという陳情にほかならないのです』という記載があるが、若狹がそういう趣旨で言つているんだろうというふうに思つたことは思つたというわけか、との検察官の問に対し)それは、あの、そのとおりである。」旨(一二二回)、「(同調書には『若狹さんは、かつて私に対し全日空が四七年度から大型機を入れる力があると見えを切つた手前もあつて、私に対してこうした間接話法的な言い方で延期の行政指導をしてくれと言つてきたのではないかと思います』という記載があるが、どうなのか、との検察官の問に対し)それは、もう、そのとおりだと思う。』旨(一二二回)の証言をし、内村も、「四六年一月に入つて若狹から、日航と(国内線に使用する大型機の)機材の導入時期について話合いをしたいんだが、日航の方でなかなか話合いに乗つてくれないので、全日空と話し合うよう日航に言つてくれという要望があり、それについて私の方から日航にそう話しておいたという返事を若狹にしたことはあつたかと思う。」旨(一二七回)の証言をしている。

(七) 昭和四六年二月一〇日開催の全日空常務会の議事録(甲二48中)には、判示第三・三・3記載の航空局からの大型機導入延期の行政指導を審議するにあたり、若狹が「入れるときは一緒にという大臣の意向もある」旨発言したことが記載されている(右発言は、若狹が被告人橋本に対し本件請託をした際の同被告人の応答から得た感触を述べているものと認められる。)。

以上に検討したところによれば、若狹、藤原の検察官調書の前記各供述記載は、本件請託に至る経緯に関し、他の関係各証拠(殊に全日空の内部資料及び全日空関係者の各証言)又は右各証拠によつて認められる叙上の事実に照らし誠に合理的であり、また、請託の点に関してもこれを裏付ける証拠が存するのであつて、右各供述記載は全体として大筋において十分信用できるものと考える。他方、若狹、藤原の当公判廷における前記各証言は、後に弁護人の主張に対する判断の中でも触れるように、右各証拠等に照らし、不合理、不自然な点が多く、これをそのまま信用するわけにはいかない。

そして、当裁判所は、右各供述記載に右に掲記の各証拠等関係各証拠を総合して、判示各事実を認めたものである。

2弁護人の主張について

(一) 「昭和四五年後半における全日空の大型機導入準備体制の実情と同四七年度導入実現の見通し」について

(1) 弁護人は、大型機導入の準備期間は流動的なものであつて、全日空では一年前後でも可能であつた(したがって、若狹が被告人橋本に対し本件請託を行うことはあり得ない)旨主張し、若狹、藤原も当公判廷において、「二〇か月ないし二年の準備期間を要するというのは、理想を言えばということであり、社内の一部にはそのように言う者もいたがそれは大勢を制するものではなく、やり方によつては一年もあれば十分であり、全日空の準備体制の面から四七年度大型機導入を遅らせねばならない事情はなかつた。」旨弁護人の右主張に沿う証言をしている。

しかしながら、右各証言は、前掲の全日空内部資料及び全日空関係者の各証言等に照らし、たやすく信用するわけにはいかない。なお、弁護人は、右主張を支持するため、種々の論拠を挙げているので、そのうち主要な点に対する判断を次に付言する。

(イ) 弁護人は、同四五年九月七日開催の第一二回総括部会において、藤原企画室長が準備期間(B)は運航開始時期(C)から機種決定時期(A)を減じたもの(C−A=B)であつて、運航開始時期と機種決定時期との間が準備期間に相当するものであることを明言し、かつ、井口(航務本部責任者)が、「準備期間は機種はどうあれ、大型機を入れるという時期が決まれば縮められる」と、堤(整備本部責任者)が「整備も同じ」、「全社として是非四六年に必要というのであれば何としてもやる」とそれぞれ発言している旨主張する。

なるほど、右総括部会の議事メモ(甲二79)及び藤原証言(六六回)によれば、藤原、井口及び堤が右総括部会において弁護人主張のような発言をしていることが認められる。しかしながら、藤原の右発言についてみるに、全日空内部の前掲資料等によれば、導入時期を決める重要な要素として、各部門で必要な準備期間が第一に考慮されていることが明らかであり、安全運航を至上課題とする航空会社としては、むしろ運航開始時期は機種決定時期に準備期間を加えたものとの発想をするのが当然であるから、藤原の右発言が、まず機種決定時期と運航開始時期を決めれば、準備期間はいかようにでも加減できるという趣旨のものであるとは考え難い(なお、藤原も弁護人の右主張に沿う証言〈六六回〉をしているが、右理由により採用できない。)。また、井口及び堤の右発言については、右総括部会の意見を取りまとめた前記(1・(一)・⑥)の総括部会事務局作成の同四五年九月九日付「総括部会意見要旨」(甲二29中)に、前記のように「準備期間を考えると四七年八月運航開始が限度である」等と記載されていることに徴すると、右両名の発言が右総括部会における大方の見解であつたとは認め難いのであつて、結局議論の結果右意見要旨に記載の見解が当日の結論となつたものと認めて差し支えない。

(ロ) 弁護人は、全日空では、メーカーから乗員及び整備士付で大型機をリースする方法により、同四六年度に大型機の導入が可能であつた旨主張し、若狹もこれに沿う証言(七二回)をしている。

しかしながら、若狹が他方では、「できるだけ自社でやっていこうという考え方であつたことは事実である。できれば自社で自主的にやりたいという気持を整備の連中が持つていたことは確かである。」旨の証言(七三回)をし、藤原も「全日空の将来にとつて大きな問題である大型機導入であるから、第一義的には新機を購入して飛ばすことを考えており、リースは第二義的な問題として考えていた。」旨の証言(六六回)をしていることや、全日空内部の検討資料及び議事メモ等関係各証拠(特に第八回委員会会議資料〈甲二41〉中「JALの四七年度B七四七投入に対する方針(案)」)を総合すれば、全日空では自主運航を前提として大型機の選定作業を行つていたものであつて、リースの方法は、あらゆる手段を講じても日航の本件大型化計画を延期させることができなかつた場合に備えて、第二次的に考慮することとされていたことが認められるから、弁護人主張のように全日空はリースの方法によつて大型機の早期導入が可能であつたとしても、これをもつて、若狹が日航の本件大型化計画を延期させるため、被告人橋本に対し請託することはあり得ないとは言えないのである。

(ハ) 弁護人は、若狹が業界紙の記者会見で、選定時期を「就航の一年前」と表明していた旨主張し、「昭和四五年九月一〇日付日刊航空」(橋本の弁護人請求の番号24)には右主張に沿う記事が掲載されている。

しかしながら、右記事は、前記の全日空内部の検討資料や議事メモ等に照らし、全日空の実情をそのまま述べたものとは認められない。

(ニ) 弁護人は、全日空では、同三九年に初めてジェット機を導入したB―七二七の場合は、機種決定から路線就航までわずか五か月足らずであつたし、また、大型機についても、同四七年一〇月末にL―一〇一一の採用を決定し、その約一年四か月後の同四九年三月からこれを定期便に就航させている旨主張する。

しかしながら、前者については、その機材は一三〇席ぐらいで本件大型機に比べて規模が小さいうえ、メーカーから乗員及び整備士の貸与を受けて導入したものであり、また、後者についても、機種決定が本件で問題とされている同四五年後半ころから約一年一〇か月も後のことであり、その間に諸準備の進捗等状況に変化があつたと考えられるのであつて、いずれの点も弁護人の右主張の論拠とはなり得ないものと言わなければならない。

右に検討したほか、その余の弁護人主張の各論拠についても、前記各証拠に照らせば、判示認定を左右するに足りないものである。

(2) また、弁護人は、全日空では、昭和四五年一二月策定の経営五か年計画に従つて同四七年八月から大型機を導入したとしても、その準備に当てる乗員及び整備要員は確保されていた、すなわち、パイロットについては、同四六年度から同四八年度までのジェットパイロットの実績数は右五か年計画に掲げられたジェットパイロットの必要数を上回つており、かなり多数の余剰があつたことが明らかであつて、右五か年計画に従つて大型機を導入しても、これに振り向けるパイロット数は確保されていたものであり、また、整備要員についても、自社オーバーホール体制の一環として同四五年四月一〇日全日空の子会社として全日空整備株式会社を設立し、当時米軍の伊丹撤退に伴い、主として米軍機の修理を行つていた新明和工業株式会社の航空部門から整備経験者の出向を得て稼働を開始し、翌四六年一〇月一日付をもつて右の出向者中三六五名を正式に右全日空整備の従業員として受け入れ、更に全日空自体の整備部門では、同四五年七月一日伊藤忠航空整備株式会社から整備技術経験者だけでも一七四名を採用し、同年一二月当時における整備技術要員の数は一、二五二名に達し、ジェット整備士の有資格者数も毎年著しく増加させているなど、右五か年計画のとおり大型化を実現するについて量、質共に確保されていたものである旨主張し、若狹(七八回)、藤原(六六回)も弁護人の右主張に沿う証言をしている。

しかしながら、全日空における乗員及び整備要員の養成方法並びに在来ジェット機の増機状況及び増機計画については、既に認定のとおりであるところ、右各事実に、前記朝日龍幹が「全日空で乗員の余裕が出てきたのは同四六年後半から同四七年初めにかけてのことである。」旨の証言(一五回)をしていることを合せ考慮すると、全日空では、同四五年後半当時同四七年八月から大型機を導入するについて、その準備に当てる乗員の余裕がなかったものと認めるのが相当である。また、整備関係についても、右の整備要員の養成方法及び在来ジェット機の増機状況等に加え、

① 同四五年七月二八日開催の第三回本委員会において、前記(1・(一)・③)のように、若狹が「一番長い準備を要するのは整備ではないか」と発言していること

② 住田が「私は、全日空から同四五年一二月策定の五か年計画の説明を受けて実行不可能であると感じ、その後間もないころ、私の部屋を訪れた若狹に対し、全日空では日航に比べ整備要員中有資格者の占める割合がはるかに低いから、有資格者を増やして整備能力を充実させることが先決であることなどを指摘して全日空の大型化計画は無理であると話し、若狹も全日空の整備面に問題のあることは自認していた。」旨の証言(一二二回)をしていること

③ 同四五年後半当時全日空経理部長であつた太田修平が、同四五年一二月一六日開催の全日空常務会において、右五か年計画に関連して「整備力についても心配している、ついていけるのか」などと発言し(甲二48中同四五年一二月一六日の常務会議事録)、当公判廷においても「整備については熟練度、いわゆるスキル度の問題があつて、やはり経験を積んでいく以外に方法がないので、(大型化を)急げば急ぐだけその点についての若干の不安がある。」旨の証言をしていること

④ 山元が、同四五年後半当時の全日空の大型化計画について、「当時全日空はボーイング七二七の大きいタイプをどんどん導入している時期であり、一面自社整備体制がやっと確立しつつある状態であつたので、そうした段階で大型機を入れるのは、安全性の面で果たして大丈夫かなという懸念を持つていた。」旨の証言(一一九回)をしていること

⑤ 橋本(昌)が、同四五年一二月全日空策定の経営五か年計画中における同四七年夏からの大型機導入計画に関し、「当時全日空はローカル線のジェット化をどんどん進めており、ボーイング七二七―二〇〇とか同七三七という機種を毎年かなり大量に購入していたので、新たに在来機に比しかなり大型の機種を導入するという点で、パイロットなり整備陣に問題はないか検討しなければならないと考えていた。」旨の証言(一〇七回)をしていること

などを総合考察すると、全日空では、同四七年八月から大型機を導入するについて、その準備に当てる整備要員(殊にジェット機の有資格者)の余裕はなかつたものと認めるのが相当である。

(二) 「全日空が日航の国内線大型化計画実現の動きを了知したこととこれに対する全日空の対応」について

(1) 弁護人は、全日空では、昭和四五年後半から同四六年初めにかけて、日航が同四五年九月に策定した本件長期計画を入手していなかつたし、また、全日空において、日航が同四五年一二月ころ新たに国際線用のB―七四七LR四機を発注した事実を知つたとしても、右発注が現有の国際線用の同型機を国内線に転用することを意味するとは到底知り得るはずがない旨主張する。

なるほど、全日空が、日航の右長期計画そのものをコピー等によつて入手していたことまではこれを認めるに足りる証拠はない。しかしながら、既に検討したように、甲二48中の同四五年九月二日の常務会議事録(前記1・(一)・④)、甲二29中の総括部会事務局作成の同月七日付「大型機選定に関する纒め(資料)」及び同資料に添付の総括部会事務局(企・企)作成の同月五日付「ANA・JAL機材計画(幹線)の比較」(前記1・(一)・⑤)、甲二64中の若狹の「日航は四六年にはDC―八―六一でまかない、四七年より導入が常識的だ」旨の発言記載(前記1・(一)・⑦)等全日空の内部資料によれば、全日空では同四五年九月初めころ、日航が航空局飛行場部へ説明した資料等から、日航の本件転用計画を含めた機材計画について情報を収集し(しかも、右の「ANA・JAL機材計画(幹線)の比較」と「日本航空株式会社四六〜五〇年度長期計画・昭和四五年九月」〈甲二21〉中の付属資料一九頁「機材計画」とを対比すると、両者は日航の国内線の大型機材計画に関し、本件転用計画を含めて一致しており、右情報は正確であつたことが認められる。)、これを藤原が同四五年九月二日の若狹も出席している常務会で報告したことは間違いがないと認められ、したがつて、若狹も右計画を知しつしていたものと言わなければならない。また、右に述べたように同四五年九月ころ全日空が日航の本件転用計画を了知していたことは明らかであるところ、右事実に、全日空内部資料に存する前記1・(一)の④、⑤、⑥、⑦、⑧及び⑨の各記載を総合して考察すれば、そのころ、全日空では、このまま放置すれば、日航が本件転用計画に基づいて同四七年四月から国内線に大型機を導入することが心至であるとの前提に立つて、種々対策を検討していたことが認められ、また、前記(1・(一)・④)の「B―七四七のオーダーについては、ファーム一二機に対し、五機を追加する動きがある、場合によつては、四六年に投入があると思える」旨の藤原の発言記載は、国内線への早期転用とからめて新たに国際線用のB―七四七LRを発注する動きのあることを指摘したものと認められるところ、右の各事実に徴すれば、若狹、藤原ら全日空関係者は、少なくとも同四五年一二月初めころ、日航が現実にB―七四七LRを発注したことを了知した段階においては、日航の右発注が本件転用計画の実現を前提とするもので、かつ運輸省が同四七年度国内線への転用を了解して右発注を認可したものと考えたと認めるのが合理的であり、更に、前記大澤信一は、「四五年一二月の常務会のころ、日航が国際線の七四七を国内に入れるということを聞いた、そのことで省の許可を得たということも聞いたと思う。」旨、右認定を裏付ける証言(七回)をしているのである。

しかるに、若狹は当公判廷において、日航の本件転用計画に対する認識の点に関し、「同四五年九月ころの時点で日航の大型化時期の計画について報告があつたという記憶はない。」(七二回)、「そんなに日航が早く導入するということについて端的に具体的にそれを議論したことはなかつたと思う。」(七二回)、「(四七年四月あたりから日航が七四七LRを国内に転用してくるという計画ではなかつたか、との検察官の問に対し)そういうことを具体的にだれかから聞いたという記憶はないが、大体LRというのは三六〇人乗りであつて、それを国内に入れてくるということは経営的には全く意味のないことである。」(七二回)、「(若狹の八月九日付検察官調書では、藤原などが運輸省へ行つたときに担当官から四五年九月ころ情報として日航の計画を聞いてきた、それは、四七年度から従来国際線に使用していた七四七を国内に転用するという話であつた、という記載になつているが、どうなのか、との検察官の問に対し)それは間違いであると思う。そういう時期にJALがLRを国内に導入するということを決定しているはずはないと思う。」(七二回)、「日航が四七年度に国際線用のLRを導入するという計画をもつておつても、それが実現するとは当然考えられない、常識的に考えられない。」(七二回)などと供述し、しかも、前記四五年九月二日の常務会議事録及び「ANA・JAL機材計画(幹線)の比較」を示されてもなお、「両社の協議が終わらないでこういう計画があり得るとは考えていなかつた、記憶には残つていない。」などと供述し(八三回)、更に、右のように日航の本件転用計画を知らなかつたとの前提に立つて、「時期ははつきり覚えていないが、四五年一二月終わりか四六年一月初めころ、藤原かだれか部下の者から、日航が取得認可を受けて、新たに国際線用のB―七四七を購入するということを聞いたと思うが、私はそれは東南アジア方面かなにかへ就航させる目的で入れたもので国内線とは無関係であると考えていた。」(七三回)、「両社の協調が大原則であるのに、我々は全く連絡も相談も受けていなかつたことから、国内へ転用されるとは全く考えていなかつた。」(七三回)、「日航が初めて国際線へジャンボを導入したのは四五年七月であるから、一、二年しか使つていない飛行機を国内線で使うことはあり得ないことだと考えていた。」(七三回)、「国際線用のジャンボを導入する場合、必ず大蔵省等と相談のうえやつているはずであるから、国内転用ということは、まず相手国と航空協定交渉が行われ、それが成功しない場合に初めて問題となるわけで、右交渉も行われていないのに国内転用は考えられない。」(七三回)、「藤原ら事務方が、日航が新しい飛行機を購入するという話を聞いてきて、国内に転用する可能性もあるかもしれないと心配していたことがあつたかもしれないが、私はそういうことは絶対にあり得ないと考えていた、明確にあり得ないと考えていた。」(七三回)などと供述している。しかしながら、前記全日空内部資料に照らし、かつ、航空会社の社長にとつては競争会社の大型機導入時期が極めて重大な関心事であることを考慮すると、日航の本件転用計画を知らなかつたとの点は、なんとしても納得できないところであり、更に、これを前提として、様々の理由を挙げ、日航が国際線用機材を国内に転用することは、全く(あるいは絶対に、あるいは明確に)あり得ないと考えていた旨繰り返し強調しているのも、かえつて不自然、不合理であると言わなければならない。また、若狹は、当公判廷において、「(若狹の八月三一日付検察官調書では、若狹が直接日航の松尾社長に対し、七四七LR三機を国内線に導入するのは本当かどうか確かめたということになつているが、どうなのか、との問に対し)はつきり記憶していないが、確かめて取得認可をもらつたことは事実であつたとしても、松尾社長から国内線転用は間違いないということを聞いた記憶がない。同人がそういうことを言うはずはない。」旨供述している(七三回)が、既に検討したように、当時日航では本件転用計画を前提として航空局からB―七四七LR四機の取得認可を受けていたことは否定し難い事実であり、しかも右事実は(かりに全日空が当時知らなかつたとしても)いずれすぐに全日空にも分ることであつて、松尾社長がこれを殊更秘匿すべき事情も窺われないことなどに徴すると、若狹が松尾社長に本件転用計画の有無を確かめ、その際同社長から、本件転用計画と右取得認可との関連についても話されたとする若狹の右検察官調書の記載は信用すべきものと認められるのであつて、これに反する若狹の右証言には納得し難いものがある。また、藤原は、当公判廷において、「四五年九月ころ、日航が四七年度に国際線に使つている七四七LRを国内線に転用するという計画をもつているという話を聞いたようにも思う。そういうことを上司に報告したかどうか知らないが、報告しているかもしれない。(前記「ANA・JAL機材計画〈幹線〉の比較」を示され)こういうものがやはり入手されておつたということなんだと思うが……。」旨(五九回)あいまいな表現で日航の本件転用計画を知つたことを認めながら、「同四五年一一月ころ日航がジャンボの発注をしたということを聞いたが、それが、国際線用のジャンボを国内線に転用することを前提に取得認可があつたという、そこまで結びつけた話とは思つていなかつたと思う。」旨供述しているが(六〇回)、若狹の右証言同様信用できない。

なお、弁護人は、右主張を支持するため他にも種々の論拠を挙げているが、いずれも右認定を左右するに足りない。

(2) 弁護人は、昭和四五年九月一四日開催の第四回本委員会における「相談するというのは遅らせることだ、なるべく遅い方がよい」旨の若狹の前記(1・(一)・⑦)発言は、騒音問題の見通しが立たないことから経営に当たる者として当然のことを言つたものにすぎない旨主張し、若狹も当公判廷において、右の発言記載について、「その速記自体に問題があると思うが、当時の状況は需要の伸びが非常に顕著であつたので両社共事務当局は急いで入れることを考えるすう勢にあつた。そこで、そういうことではいけないので、ノイズの問題もあり、安全問題もあるから、決して急がないで、お互い十分連絡し合つて決定していただきたい、ということである。」旨右主張に沿う供述をしている(七二回)。

しかしながら、既に検討したように、若狹は右第四回本委員会当時日航の本件転用計画を知しつしていたこと、右第四回本委員会に先立つて同四五年九月七日に開催された第一二回総括部会における意見を取りまとめた総括部会事務局作成の同月九日付「総括部会意見要旨」(甲二29中)に、同四七年度導入についても、準備期間を考慮すれば同四七年八月運航開始が限度であり、機種の決定が遅れればそれも困難であるとされ、また同四八年度導入案がある旨の記載があること(前記1・(一)・⑥)、総括部会事務局作成の同四五年一〇月三一日付「大型機懸案事項纒め」(甲二285中)に、右第四回本委員会の意見として、「慎重でありたいので日航との話し合いによつて導入時期を延ばしうるものなら延ばしたい」旨の記載があること(前記1・(一)・⑧)等を総合考察すれば、若挾の「相談するということは遅らせることだ、なるべく遅い方がよい」旨の発言は、藤原の検察官調書における前記供述記載のように、若狹が全日空の大型機導入準備体制が遅れている実情にかんがみ、日航に同四七年四月から大型化を先行された場合に全日空の受ける不利益を考え、日航との話合いによつて同社の大型機導入時期を遅らせようとの趣旨で行つたものであると認めるのが相当である。なお、若狹は、日航に大型化を先行された場合に全日空が受ける影響について、「日航に大型化を先行されたとしても日航の優位性が直ちに確立されて全日空にとつて極端な不利を招くものでもないし、ただやみくもに大型化するのはさほどプラスになることではない。」旨の証言(七二回)をしているが、前記(1・(一)⑤)のように、総括部会事務局作成の同四五年九月七日付「大型機選定に関する纒め(資料)」(甲二29中)に、「幹線におけるJALとの機材格差は競争に重大な影響をもたらすことは明らかであり……」と記載されていること、同四七年三月一六日開催の第二一回総括部会の議事メモ(甲二84)に、藤原が「JALに対していかに対抗するか、JALが入れてANAが入れない場合は、壊滅的打撃をうけることは間違いない。JALが大型機を入れて、うちが入れない場合は、ANAは入れられないという企業イメージダウンを招くから、どうしても入れざるを得ない」旨の発言をしたことの記載があること、総括部会作成の同四七年三月二九日付「大型機選定に関する検討結果報告」(甲二42中)の「大型機導入時期について」に、全日空が同四九年度に大型機を導入する場合の問題点として、「JALの四八年度ジャンボ機投入を、阻止又は引き延ばし不可能の場合は、JALとの格差が拡大し、ANA導入後でも回復できない恐れがある」旨の記載があること、前記江島三郎が「日航が先に大型機を導入すると全日空にとつてえらい事態になるかもしれない。お客というのは大型機がきたならばそちらの方に乗つてみたいという好奇心が多分にあると思う。お客をとられるということは当然考えられると思う。営業上からみたら非常に問題になつてくると思う。」旨の証言(九回)をしていること、青木久賴証言(九四回)に甲一447を総合すると、同四七年三月ころ、選定委資金コスト部会関係者において、日航が同四八年四月からB―七四七を国内線に投入し全日空が同年八月まで大型機導入ができなかつた場合にどの程度のインパクトを受けるかを検討するに際し、その間乗客へのアピールの度合に差があるため著しく競争力が低下するところから、全日空の乗客が四分の一ないしは二分の一減少するとの想定に基づく検討資料を作成していたことが認められること等に徴すれば、若狹の右証言は到底信用できない。また、弁護人は、若狹の右発言記載に続いて、同人が「一つはノイズが見通しがつかないということだ」旨の発言をしたことが記載されている旨主張し、甲二64にはその旨の記載があるところ、前記認定の事実及び右発言中に「一つは」とあることに徴すれば、若狹の右発言は、全日空の大型機導入準備体制が遅れていることのほか、なおノイズの見通しがつかないという点からも大型機の導入はなるべく遅い方がよいという趣旨であると解せられるのであつて、専らノイズの見通しがつかないことを理由に大型機の導入を遅らせるべきであるとの発言ではないと言わなければならない。

(3) 弁護人は、昭和四六年一月一一日、航空局側は住田監理部長、山元監督課長らが、全日空側は若狹、藤原らが出席して、全日空が同四五年一二月に策定した経営五か年計画について、航空局に対する説明会が行われたのであるが、その席上住田から全日空に対し、同四七年度からの大型機導入を延期したらどうか、との示唆があつたのであるから、若狹がわざわざ住田らに判示(第三・一・3)の陳情をする必要は全くなかつた旨主張する。

しかしながら、住田の右示唆は、全日空の大型機導入を延期したらどうかというものであつて、日航のそれを延期するというものではないから、弁護人の右主張は失当である。

(4) 弁護人は、前記(1・(六))の住田証言(一二二回)に関し、同証言によれば、若狹が住田に対し「日航はけしからん」等と話したというのであるが、その話したという時期は、昭和四五年一二月から同四六年一月にかけてのことではなく、同年三月以降六・七月ころのことである、すなわち、住田は「(若狹の右話は)日航が依然として国内線に大型機を入れたいということを言つておつたのをうけた話だと思いますけど……」と証言しているが、それは導入することに対する否定的な動きがあるにもかかわらず、依然として日航が大型機を入れたいと言つていたことを表わすものであり、右否定的な動きとは、航空局が大型機の導入時期を延期させようとして、同四六年二月上旬日航、全日空の両社に対して行つたいわゆる「問合せ」を指すものとみられ、また、その間の事情を伝えるものとして、同四六年七月二五日付日本経済新聞(橋本の弁護人請求の番号140)の記事によれば、「いま、日航と全日空がジャンボジェットの国内幹線への導入をめぐつて、激しく対立している。日航の朝田社長は『運輸省航空局から事前に内諾を得て、機材を発注した。また東京、羽田空港の発着マヒ状態を解決するためにも大量旅客機の導入が最良』として、来年四月から東京―福岡、東京―札幌に一日四便(四往復)ジャンボジェット・ボーイング七四七型機を就航させる意向を表明している。これに伴い『全日空と協力、両社のマークをつけ、共同運航も辞さない』といつている。これに対し、全日空の若狹社長は『日航の条件は絶対にのめない。運輸省に正式見解をただしたところ、ジャンボジェットの導入は四九年春ごろで十分としている。いま、無理に導入すると、コストアップで米国の二の舞になりかねない』と猛反発している」と掲載している、以上を総合してこれをみれば、住田証言にいう若狹の「日航はけしからん」等の発言時期は同四六年三月以降六・七月ころのことであつたと認めるのが合理的である旨主張する。

しかしながら、住田の前記の(1・(六))証言の前には、尋問及び供述の中に、弁護人のいういわゆる「問合せ」、すなわち判示(第三・三)大型機導入延期の行政指導に関する事項は全く表われていないこと、住田の右証言は、検察官の「四五年一二月から四六年一月にかけてのころ若狹から大型機の導入時期に関連してなにか言われたことがなかつたか。」との問に対し、住田が「……若狹が月に一、二回来ておつて雑談して帰つていくわけだが、その中で日航はけしからんとかなんとかいう話は出ておつたと思う。」旨供述したことに始まり、以後若狹が右のように話したことの趣旨やその際の若狹と住田の会話の状況等について詳しく尋問、供述が行われたが、その間、若狹が住田に右の話をした時期の点については何ら触れられていないこと、右行政指導の点は、若狹の右話に関する事項の尋問が終つた後、新たな事項として尋問が行われていること、また弁護人の反対尋問においても、右時期の点については全く問題とされていないこと等に徴すれば、住田の右証言は、同四五年一二月から同四六年一月にかけてのころのこととして述べられたものとみるのが自然である。もつとも、弁護人主張のように、右最初の尋問、供述に引続き、検察官が「日航はけしからんというのは具体的にどういうことでけしからんということか。」と尋ねたのに対し、住田は「日航が国内線のシェアを大幅に増やしたいとかいうことで、いろいろやつているのはけしからんというような言い方をしていたと思う。まあ、それは、日航が依然として国内線に大型機を入れたいということを言つておつたのをうけた話だと思うが」と答えている。しかしながら、住田は、右のように述べる前に、同四五年九月策定の日航の判示(第三・一・1)長期計画及び同判示のB七四七LRの取得認可申請に関し、「私はかねがね日航が飛行機を買いすぎると考えており、右長期計画には納得できず、日航にもその旨言つていた。また、右取得認可申請についても、ずつと押さえていたが、日航に押し切られて、飛行機の使い方については今後検討するということで認可したつもりである。右認可をしたからといつて、それによつて四七年度に入れることを認めたり、そういう方向で動き出したということではないと思う。」旨の証言(一二二回)をし、また、右行政指導のことを述べるに際し、「四六年二月に日航に対し、四七年度からの大型化計画の実施を延ばす方向で検討するように指導をしたことがある。右指導をすることを決めるにあたり、町田事務次官の部屋で、同人と内村局長と私が話をした際、私は、日航だけが非常に四七年度から入れたいということで動いているが、航空の安全の面から日航に話をしましようと言つた。(日航が急いで入れたがつているという話をした趣旨はどういうことか、との検察官の問に対し)さつき話したように取得認可に関連する話だが、日航が一応四七年度から国内線にジャンボを転用したいという計画を出しておつて、私はそれを正式には認めてなかつたわけだけど、これは私個人的な話だけど、そういうことについて日航側から入れさしてくれという話が監督課長の方へ引続ききておつたと思う。そういうことをうけて日航は早く転用を考えているということを言つたと思う。」旨の証言(一二二回)をし、更に、「取得認可をするにあたり、四七年転用を前提に認可するのではなく、使い方は別途検討するということを監督課長を通じて日航に言わせたと思う。」旨の証言(一二二回)をしていることにかんがみると、住田の認識では、同四七年度転用を認めて取得認可を与えたものではなく、その旨日航に言つてあるはずなのに、日航が監督課長のもとへ四七年度からの大型機導入を求めてきているというのであり、したがつて、住田は右認識に基づき、「日航が依然として国内線に大型機を入れたいということを言つておつたことをうけた話だと思うが」と述べたものと解するのが相当である。

(三) 「若狹の被告人橋本に対する請託」について

(1) 弁護人は、若狹が大型機導入時期を昭和四九年と言うわけがない旨主張する。

しかしながら、既に検討したように、同四五年後半当時における全日空の大型機導入準備体制の実情が判示(第三・一・2・(一))のとおりであつたことに加え、全日空では同年一二月末を経過してもなお大型機の機種が決定していなかつたことなどに徴すれば、若狹、藤原の各検察官調書における前記の「私は、全日空としてはできるだけ導入時期を延期したほうがよいと考えていたが、フレンドシップをリタイヤさせた後、大型ジェットを導入することを考えていたので、昭和四六年初めころから二年間の予定でフレンドシップをリタイヤさせつつ、その間、これが軌道に乗つたところで、大型ジェット機に関する整備員の訓練とかパイロットの増員なども並行させて行えばなんとかなると考えたので、四九年度導入ならよかろうと考えていた」旨(若狹)、及び「四五年一二日ころ当時の状況ではどんなに早くても四八年四月以降にしてほしいと考えていたし、更に私自身は安全性の面を十分確保するためには四九年度導入としてもらえば一番よいと考えていた」旨(藤原)の各供述記載には合理性があり、更に、前記太田修平の証言(二五回、一七四回)に甲二79、同80、同48中昭和四五年一二月一六日分等関係各証拠を総合すると、同四五年後半当時、全日空の経理部門からは、同四七年度に大型機を導入すると、その減価償却負担とFR二七のリタイヤ計画等による在来ジェット機の新規増機による減価償却負担が重なつて収支面が悪化するうえ、資金調達の面からも、大型機の導入は同四九年度ころ以降に遅らせるべきことが強調されていたこと(ちなみに、全日空では、機材の減価償却の方式として級数法、すなわち、国内線用機材の法定耐用年数七年について、初年度は二八分の七、二年度は同分の六、三年度は同分の五、四年度は同分の四、五年度は同分の三、六年度は同分の二、七年度は同分の一をそれぞれ償却する方式を採用しており、したがつて前半三年間は後半三年間に比し償却額が相対的に高くなつているところ、経理部門では、在来ジェット機の右新規増機の償却合計額が相対的に低くなる時期に大型機を導入するのが収支面で好ましいとしていたものである。)が認められるところ、右事実をも合せ考えれば、若狹は、同四六年一月ころには、全日空としては、大型機の導入は同四九年度が最も好ましいと考えていたものと認めるのが相当である。

なお、弁護人は、右主張を支持するため、他にも種々の論拠を挙げているが、いずれも右認定を左右するに足りない。

(2) 弁護人は、若狹の「入れるときは一緒にという大臣の意向もある」旨の発言(前記1・(七))の意味は次のとおりである、すなわち、被告人橋本(運輸大臣)は、昭和四五年一一月五日、若狹ら航空四社の社長に対し、同年一〇月二一日付の運政審答申を一部手直しした「航空輸送の運営体制について」を示達して協力方を求めた際、「日航、全日空両社がよく話し合つて大型化を図ることを期待する」旨強調したのであるが、若狹はそのことが念頭にあつて、常務会の席上で右の発言をしたものである旨主張する。そして、若狹も当公判廷において、同四六年二月二〇日開催の常務会議事録(甲二48中)の若狹の右発言記載について、「橋本大臣から入れるときは一緒にという言葉を聞いた記憶はないが、同大臣から協調してやれという言葉は何回も聞いているのでそういうことを常務会で発言したと思う。この速記には前提が抜けているのではないかと思う。」旨弁護人の右主張に沿うかのような供述をしている(七三回)。

しかしながら、若狹の右発言記載が、若狹において、被告人橋本から一般的な問題として日航、全日空両社の協調を言われていた旨を述べたことを記載したものであると解するのは、その記載自体に徴し無理であり、やはり、若狹の検察官調書における「議事録の中で、私が『入れるときは一緒にという大臣の意向もある』という発言をしているのは、私が一月中旬に橋本運輸大臣にお願いしてきたときのことを言つているのである。」旨の前記供述記載に合理性があると言わなければならない。

三 「被告人橋本が運輸省事務当局をして、若狹の請託の趣旨に沿う行政指導を行わせたこと」について(判示第三・三の関係)

1弁護人は、被告人橋本は事務次官町田に対し、日航の昭和四七年度大型機導入を延期させることを検討するよう指示したことはない旨主張する。

しかしながら、住田は「四六年二月上旬ころ、内村と私が町田から事務次官室に呼ばれた。その際、町田から『橋本大臣から、大型機というのはいつぺんに三〇〇人も四〇〇人もの大量の客を運ぶわけで、事故でも起きると大変なことになるから、大型機の導入については、安全性を十分考え、慎重に検討した方がよい、と言われたが、どうしたらよいか』という話があり、私は『日航は四七年に大型機を入れたいと言つているが、共同運航とか運賃プール制といつた条件整備ができていないのに、日航だけ先に入れることは、(全日空が四七年度大型機導入の能力がないのに日航と競争して無理にこれを導入しようとするなど)航空の安全面から問題があるから、私の方から日航に話をしましよう』と述べ、内村は『国内線は国際線のように外国のエアラインと競争しているわけではないから、運輸省の指導で過当競争が起きないように十分調整ができるわけだから急いで大型機を入れる必要はない』と言つた。町田も私と内村の右のような意見を了承し、条件整備ができない限り四七年度導入は認めないという方針が決まつたということである。」(一二二回)、「私は、橋本大臣の右のような話を、前年の四五年以来の大型機を国内線に転用するという問題について、ちようどけりをつけるというか、方針を明らかにするいいチャンスだということで受け取つたわけである。」(一二二回)、「要するに橋本大臣から右のような話があつたことをきつかけとして、町田次官の部屋で検討し、四七年度はちよつと早過ぎるという結論になつたということである。」(一二二回)旨の証言をしているが、右証言は、前後一貫していて具体性に富んでいるうえ、住田が被告人橋本の刑事責任に関係する不利益な重要事実について殊更虚構のことを述べなければならない事情は全く窺えないことに徴すれば、これを信用して差し支えないものと考えられるところ、右証言に、

① 町田が「私自身の考えで、大型機導入を慎重にすべきであるとか、あるいは時期を延ばすべきだというように部下に対して指示することはあり得ない。」旨の証言(一三〇回)をし、また、「大臣から言われもしないのに、局長や部長に大臣から言われたと言つて話をすることは絶対にない。」旨強い口調で述べている(一三二回)こと

② 山元(一一九回)、橋本(昌)(一〇八回)の各証言によれば、本件行政指導は、航空会社の監督、指導をその職責とする直接の責任者である監督課長山元でさえ事前には何らの相談にあずかることもなく、上層部において決定された方針転換であつて、監督課は唐突な感じでこれを受けとめ、当然予想された日航からの反発を受けるに及んで初めて事務的な検討を開始したものの、予想もしていなかつた延期という結論が既に上層部の意向として固まつていたためその理由付けに苦慮していたことが認められ、また、山元が「住田から本件行政指導を行うよう指示された際、住田の一存でできることでないと感じた。」旨の証言(一一九回、一二一回)をしていること

③ 既に認定したように若狹が被告人橋本に対し判示請託を行つていること

及びその余の関係各証拠をも総合考察すれば、被告人橋本が事務次官町田に対し、判示のように、安全性確保の観点から大型機の導入は慎重に検討するよう指示したこと及び右指示が直接の契機となつて本件行政指導が行われるに至つたことが認められる。(ちなみに、住田の右証言中、「町田が橋本大臣から、大型機というのはいつぺんに三〇〇人も四〇〇人もの大量の客を運ぶわけで、事故でも起きると大変なことになるから、大型機の導入については、安全性を考え、慎重に検討した方がよい、と言われた」との部分は、伝聞供述にあたるところ、そのことが明白であるにもかかわらず、被告人橋本及び弁護人は右の点について何ら異議を述べていないのみならず、専ら右証言の証明力を争つているのであるから、右伝聞供述を証拠とすることに黙示の同意があつたものとするのが相当であるが、当裁判所としては、住田の右供述部分が伝聞であることを配慮しながら、同供述部分及び他の関係各証拠並びに次に述べる弁護人の主張を慎重に検討した結果、なお右認定の心証に達したものである。)

なお、弁護人は、右主張を支持するため、種々の論拠を挙げているので、それらについて当裁判所の見解を付言する。

(一) 弁護人は、町田は、大臣から大型機の導入時期について聞いた記憶は全くないし、内村、住田の両名に大臣の意向として右の問題を話し合つた記憶もないと証言し、内村も、町田から大臣の話として大型機の導入時期を聞いた記憶はないし、三名でその問題を話し合つた記憶もないと証言していること等に徴すれば、町田から内村、住田に大臣の意向として伝えられた事実があつたか否かまことに疑わしい旨主張する。

なるほど町田(一三〇回)及び内村(一二七回)は弁護人主張の趣旨の各証言をしているが、しかし、両名とも住田の前記証言を否定しているわけではなく、町田は「当時、私は事務次官でかなり守備範囲が広いが住田は監理部長として航空関係の監督行政を中心にやつていたので、彼がはつきり覚えているというならあるいはそういうことだつたかもしれないけれども、私としては記憶にないということである。」旨(一三〇回)、内村は「住田に聞いてみたところ、住田は相当はつきりした記憶を持つているし、また、住田は、その際(四六年二月ころ次官室に呼ばれて大型機導入延期の話合いをした際)に、私が国際線については国際競争があるから急がなければならないが、国内線の場合にはそう急がなくてもいいのではないかということを述べたと言つているが、そういう言葉は私もその時かどうか分らないが、どこかで言つた記憶があるので、はつきりしないが、その当時のことかもしらんという気はしている。」旨(一二七回)それぞれ供述しているのであつて、右両名の証言は、住田の前記証言の信用性を左右するものではないと考える。

(二) 弁護人は、住田は、被告人橋本が昭和四六年二月二〇日の衆議院予算委員会第五分科会において、国内線向けの大型機採用について運輸大臣の考え方及び指導方針につき質問を受けた際に行つた「安全性の点でも万一のことがあると従来の二倍、三倍の事故になるから、この種の問題は消極的に考えてよい」との趣旨の答弁と混同し、これを同年二月初めに町田から話があつたことだと勘違いして、前記証言をしたものであると推測される旨主張する。

しかしながら、住田が、日航に対し本件行政指導を行つた後になされた右国会答弁の内容と、右行政指導を行うきつかけとなつた話の内容とを混同しているとは到底考えられないうえ、弁護人の反対尋問においても右の点については全く触れられていないこと等に徴し、弁護人の右主張は採用の限りでない。

(三) 弁護人は、航空局は独自の判断で大型機の導入を延期させることを策し、自主的に全日空及び日航に対し本件のいわゆる問合せを行つたものであるが、これを行つた理由は次のとおりである、すなわち、航空局は、第二次空港整備五か年計画(昭和四六年度〜五〇年度。以下第二次空整という。)実現の財源に充てるため、航行援助施設利用料を新設し、昭和四六年八月からこれを航行援助施設の受益者である各航空会社より徴収し、なお同四六年度は右利用料は各社の経済努力によつて吸収させ、運賃値上げ等の見返りは与えないとの方針を立て、同四五年一二月二三日各航空会社にこれを通知して協力方を要請したが各社はその負担能力がないことを強く訴えて一斉に反発した、また、同四六年二月初めころは、運政審の答申当時と異なり、万博終了後の需要の鈍化、米国をはじめとする航空業界の世界的不況、同四七年度に予定された運賃値上げによる旅客減少のおそれ等航空機の大型化を阻むいくつかの要因が新たに生じていた、そこで、航空局は、日航、全日空が各五か年計画で計画しているように同四七年度からそれぞれ大型機を一斉に導入すれば供給過剰にあることは明らかであり、在来機の増強で足りると判断し、日航、全日空に対し、ばく大な費用を要する大型機の購入を控えさせることによつて、両社の財務的疲弊を防ぎ、もつて両社から第二空整の財源を吸収しやすくしようと考えたのである、そして、航空局は、そのためには日航の本件転用計画を延期させる必要があると結論したのであるが、これに至る航空局の思考順序は次のとおりである、すなわち、航空局は、

① まず、日航が計画している同四八年度用新大型機六機の購入を抑制するため、日航の同四六年度認可予算から右六機分購入の頭金を削除する、そうすれば、日航の計画では同四七年度に国際線から国内線へ転用したB-七四七LRは同四八年度には国際線へ戻すこととされていたから、同四八年度は日航の国内線大型機は零となり、日航の新大型機の国内線就航は早くとも同四九年となる。

② しかし、全日空では、同四七年八月から大型機導入の計画を立てていたから、日航に対し右①の措置をとると、同四八年度に国内線で大型機を運航するのは全日空だけとなり、そうなれば、日航は全日空との対抗上四八年度用大型機の購入を強く希望してくる、そこで、全日空の出費を抑え、併せて日航を納得させるため全日空の同四七年度の大型機導入を抑えなければならない。

③ 全日空の同四七年八月からの大型機導入を抑えるには、日航の本件転用計画を明確に否定する必要があるとの思考順序を経て本件の問合せを行つたものである旨主張する。しかしながら、被告人橋本が運輸事務次官町田に対し判示の指示を与え、それが直接の契機となつて本件行政指導が行われるに至つたことは既に認定したとおりであるから、弁護人の右主張が、航空局において、被告人橋本の右指示なしに、あるいは右指示とは無関係に本件行政指導を行つたという趣旨であるならば失当と言うのほかはない。ちなみに、本件行政指導を行つた理由について、運輸省関係者はだれ一人として弁護人の右主張のようなことは証言していないのみならず、かえつて、町田、内村と協議のうえ本件行政指導を行うことを決定し、自ら日航に対してこれを伝えた住田は、「日航は前から(国際線に)七四七を入れているから運航、整備面では問願はないが、全日空の場合運航面、整備面で大型機を入れるには相当の時間がかかる状況であつた。」(一二二回)、「全日空が安全に四七年度から運航ができるということであれば四七年度導入でもよかつた。」(一二二回)、「運賃プール制とか共同運航等過当競争のおそれがない条件が整備されているなら四七年度から入れてもいいという感じであつた。」(一二二回)旨、また、住田の指示により本件行政指導を全日空に伝え、かつ、本件行政指導後日航の反論を受け同社との折衝に当たつた山元は、「本件行政指導について日航から反論を受けて需給関係を検討した結果、四七年の国内転用をやめなければならないという結論が出たわけではないし、万博後の需要の伸び悩みも決定的な要素ではないかもしれない。」(一一九回、一二一回)、「日航の立場だけを考えれば、当時空港の混雑とか、乗員の制約ということから、四七年度には大型化しなければ需要に適正に対応していけない状態であつたと思う。」(一一九回)、「日航は既に国際線用で使つているジャンボジェット機を国内線に一時転用するということであつて安全上も問題がないという認識であつた。」(一一九回)、「日航の転用を延ばさせようということになつた理由は一言で言えば結局全日空にとつて安全上の問題があつたからである。路線運営の公正な行政を行うには全日空の体力がつくまで日航に待つてもらつた方がいい。そうでなければ全日空が背伸びをするようなことになつては安全上大変だという気持があつたわけである。そういうことを端的に日航に言つても、日航は当時安全に自信を持つていたので、日航になぜやらせないのか、むしろ全日空を押さえるべきではないかと言つて反発し、なかなか聞き入れない状態であつたと思う。そのため需給バランス等の数字を示して日航を説得するという方法をとつたということである。」(一一九回)、「第二次空港整備五か年計画との兼ね合いということは記憶にない。」旨(一二一回)、住田、山元の指示により、日航を説得すべく資料の作成等にあたつた橋本(昌)は、「四六年初めころだと総需要の動きから大型化を遅らせる理由はない。」(一〇八回)、「日航はジャンボを既に国際線に使つていたから余り準備期間がなくても国内線に導入できるが、全日空は当時まだ機種の決定も行われていないし、日航が先に導入すると全日空が焦る、つまり、全日空が早く入れられないのに日航に先に大型機を入れさせると全日空の方が無理をして導入を早めることとなり、そこから安全性に問題が出てくるというのが、本件行政指導の原因である。」(一〇八回)、「(証人の証言を聞いていると、延期の行政指導の理由としては、要するに日航については大型化の必要性も能力もあるが、全日空については必要性又は能力がないので、全日空の遅れに日航を足踏みさせるという以外にないと思われるが、そのとおりなのか、との検察官の問に対し)そうである。」(一〇八回)、「第二次空港整備五か年計画の特定財源を求めることの関連で大型機の導入が問題になつたという記憶は全くない。」(一〇八回)、「当時、第二次空整等の財源確保のため、各航空会社に設備投資の抑制を求める状況にはなかつた。」(一一五回)旨の証言をそれぞれしているのであつて、右各証言に、判示のように山元らが日航に対し全日空との話合いがつけば大型機の同四七年度導入を認めてもよいとの意向を示していること(山元〈一一九回〉、稲益〈三八回〉、須藤晨三〈三一回〉、橋本(昌)〈一〇九回〉の各証言等)等をも総合すれば、航空局が本件行政指導を行つたのは、日航が本件転用計画に従つて同四七年度から国内線に大型機を導入すると、全日空も日航との競争上その準備体制が整つていないのに無理をして大型機を導入することとなり、安全性の点で問題があつたからであつて、弁護人主張のような理由によるものでないこと明らかであると言わなければならない。

2弁護人は、航空局が昭和四六年二月上旬日航及び全日空に対し行つたのは、行政指導ではなく、単なる「問合せ」である旨主張する。

しかしながら、住田の前記証言及び山元、稲益の各証言、甲二48中同四六年二月一〇日分等関係各証拠を総合すれば、同年二月上旬ころ、日航及び全日空に対して行われた判示指示は、運輸省が航空の安全性確保の見地から、同四七年度の国内線への大型機導入を認めず、同四九年ころまで延期させるとの行政方針を決定したうえ、これを日航及び全日空に通知して、右方針に従つて業務運営を行うよう指導したものであることが認められる。なお、弁護人の主張するような単なる「問合せ」(その趣旨必ずしも明確ではないが、航空局において今後の行政方針を策定するうえで参考に供するため、日航、全日空の各意見を聴取したものにすぎないとの意味に解せられる。)にすぎないならば、日航の意見は一回これを聴取すれば足りるはずである。しかるに、須藤晨三(二九回、三一回)、稲益(三八回)の各証言、甲二219ないし223等関係各証拠を総合すれば、航空局は、日航がその都度反論書を提出しているにもかかわらず、同四七年度、四八年度に大型機を導入しない場合の影響に関し、同趣旨のことを角度をかえて繰り返し意見を求めたうえ、同四七年度については大型機を導入しなくても在来機で需要を賄える旨の資料(甲二223中の四六・六・一付「四七年度幹線機材計画について」)を示していることが認められるのであるから、右事実に徴しても、住田が稲益に対し行つた判示指示は、単なる問合せではなく行政指導であつたことが明らかである。

第二  被告人佐藤関係

一 「第一回請託(昭和四七年四月中旬ころ)とこれに至る経緯」について(判示第四・一の関係)

1弁護人は、被告人佐藤が昭和四五年一一月二〇日の閣議了解の具体化作業を企図したのは、同四七年二月二五日ころ丹羽大臣から右のことを命ぜられた以後のことである旨主張し、同被告人も当公判廷において同旨の供述をしている。

しかしながら、町田の「四六年末かちよつと前に佐藤政務次官から、丹羽大臣と話したのだが、四六年の閣議了解をもつと具体化し、それぞれの事業分野をはつきりさせる必要があるので、そういう仕事をやろうと思うということを伺つた記憶がある。」旨の証言(一三〇回)、北御門洋の検察官調書(甲三20)の中の「昭和四六年末か同四七年に入つた当初ころ、佐藤次官は閣議了解事項全般についてその具体化作業をしようということが分つてきた。」旨の供述記載及び藤原の検察官調書(甲三48)中の「私どもが佐藤次官から聞いていたところでは、佐藤次官はいくら東亜国内に金を返せと言つたところで東亜国内に金を返せるようにしてやらなければならないと考えられ、それで四七年一月か二月ころから四五年一一月二〇日の閣議了解を通達で具体化しようという作業を始められた。」旨の供述記載を総合すれば、被告人佐藤は、昭和四六年一二月末ころから、同四五年一一月二〇日の閣議了解の具体化を企図していることを運輸省や全日空等の関係者に話していたものと認められる。

2弁護人は、被告人佐藤が丹羽大臣から一任されたのは、「今後の国内航空行政をどうするかという全般的な観点から結論を出して解決してほしい」というものであつて、閣議了解に示された航空三社の事業分野を更に具体化して通達を取りまとめ航空三社に示達することというものではない旨主張する。

しかしながら、被告人佐藤の当公判廷における「清算問題を解決するには、単に日航と東亜国内の問題だけではなく、東亜が企業として成り立つように配慮しなければならない、清算問題即閣議了解をより具体化しなければならないことだと認識を深めた。」(一六五回)、「許認可が運輸省の行政の大半を占めているから、(航空局事務当局は)許認可することが行政なんだという錯覚に陥つているのではないかと思う、。そこにビジョンなり政策があつて、それを実現する過程に許認可という行為が行われなければならないと思う。」(一六五回)旨の各供述及びその他関係各証拠を総合すれば、被告人佐藤の本件作業の目的は、弁護人主張のように全般的な観点から結論を出すものであつたにせよ、結局は昭和四五年一一月二〇日の閣議了解に示された航空三社の事業分野等を更に具体化した施策を取りまとめ、これを今後の航空行政の準則とすることにあつたことは明らかであり、また、藤原(六四回)、若狹(七三回)の当公判廷における各供述によれば、藤原は、同四七年三月下旬ころ運輸政務次官室で、被告人佐藤本人から第一次佐藤案を渡されそれを修正する形で全日空の意見を提出するよう求められた際、同被告人から、運輸大臣の特命で本件清算金問題の調整に乗り出したが、東亜国内航空をして支払えるような状態にしてやるには、同四五年一一月二〇日の閣議了解で示された航空三社の事業分野等を更に具体化することが必要であり、同被告人が中心となつてその作業をしている旨を言われ、運輸省としての指針を出すことになると理解し、帰社後その旨を若狹ら上司に報告するとともに第一次佐藤案を示したことが認められ、右事実によれば、若狹、藤原らも、同被告人が右閣議了解に示された航空三社の事業分野等を更に具体化した施策を取りまとめる作業をしていると認識していたことは明らかである。そして、右の具体化しようとする施策は、その内容が最終的に確定すれば、事柄の性質上、文書化されて運輸省部内に行政上の指針として示される一方、航空三社にこれを通知して協力要請ないしこれに従つて今後の業務運営を行うよう行政指導をすることとなること並びに右内容の重要性及び被告人佐藤が丹羽大臣の特命を受けて右作業を行つていることにかんがみれば、右文書が運輸大臣名義になるであろうことは、同被告人はもとより若狹、藤原ら関係者も当然のこととして考えていたものと言わなければならない。なお、被告人佐藤、若狹、藤原らの各検察官調書で通達という言葉が使用されているのは、本件で最終的に作成された右閣議了解を具体化した文書が一般に通達と称されているため、右各供述者が、被告人佐藤の本件具体化作業中の時点のことを述べるにあたつても、将来作成されるであろうところの右閣議了解を具体化した文書のことを便宜上通達と供述したものと認められるから、右の文書を通達と称するかどうかは単なる呼称の問題にすぎず、本件では重要ではない。

3弁護人は、第一次佐藤案は運輸省案と称すべきものである、すなわち、被告人佐藤が内村航空局長に対し、閣議了解の本旨に沿つてその具体化を図りたいので、事務当局において公平妥当な案を作成してほしいと指示した結果、航空局(主として担当したのは山本監督課長)において起案し、同被告人に報告してきたのが素案(甲二118中一番上に編綴されている運輸省航空局用箋を用いた「航空企業の運営体制について」)であり、同被告人が山本監督課長から右素案について説明を受け、表現その他について間違いのないように煮詰めて航対委に提出する正式なものを作つてもらいたいと更に指示したところ、昭和四七年三月二二日の約五日ないし一週間ぐらい前に、山本監督課長が成案としてまとめて同被告人に提出したのが、第一次佐藤案(甲二117中「資料1」と表示のある四七・三・二二付「航空企業の運営体制について」)と言われているものであり、以上のような作成経過からみて、右案は明らかに運輸省案と称すべきものであつて、現に右素案と第一次佐藤案とは、若干の語呂あるいは表現方法において修正されているが、本質的に変更されている部分は見当たらない旨主張する。

なるほど、第一次佐藤案の作成に至る過程で山本らによつて右素案が作成されたことが認められるが、山本の証言(一〇五回)等によれば、航空局事務当局が右素案の作成を含め閣議了解の具体化作業を行つたのは、被告人佐藤の航空局幹部に対する判示指示に基づくものであり、航空局事務当局としては判示の理由により閣議了解を具体化すること自体に反対したが、同被告人に容れられなかつたため、やむを得ず同被告人の言う趣旨を取り入れながらも、できるだけ抽象的な表現にとどめるとの判示の方針で右素案及び第一次佐藤案を作成したものであることが明らかであり、第一次佐藤案の右作成経過にかんがみれば、それは被告人佐藤の案と称するのが相当である。

4弁護人は、第一回請託について、若狹が全日空のため被告人佐藤に対し、昭和四七年四月中旬ころ判示のような陳情をしなければならない事情は全くなかつた、すなわち、国内幹線の大型化については同四六年七月一日航空局監督課作成の「幹線における大型ジェット機投入問題」と題する書面(甲一449)に明示されているように、同四九年度導入を原則とし、それ以前の導入については日航、全日空の話合いがつくことが必要であるということが航空局の既定方針であり、しかも同四六年七月二日の航対委において右方針が確認されているうえ、右航対委の席上日航、全日空両社においてこれを了承しているのであり、また、日航が同四七年四月一五日から沖繩線にB―七四七LRを導入すべく同年三月三一日付で事業計画変更の認可申請をしていた状況にあつたという点についても、日航の主張は、沖繩の本土復帰を目前に控えているにもかかわらず、沖繩線はまだ国際線であるから運輸省の四九年度以降大型機導入という方針に抵触しないという児戯にも等しい形式論にすぎず、当時、沖繩本土復帰後の那覇を幹線に含ませるか否かが大きな問題として取り上げられていたのであり、しかも同四七年四月五日衆議院において、被告人佐藤が、閣議了解の具体化作業をやつているので、日航の右申請はその一環として対処したい旨の答弁をし、更に同年四月二四日参議院において、丹羽運輸大臣も「(日航の右申請は)ただいま検討をさせているところであります。実は今度沖繩も返つてまいりますると国内線になる次第でございます。……」と答弁している状況であつたのである、更に、東亜国内航空は当時ジェット化もできていないような会社であつて、幹線にどんどん参入できる状況になく、また、全日空として同社とのダブル・トラッキングをそんなに神経質に考える状況にもなかつたのである、したがつて、若狹が同四七年四月中旬ころ被告人佐藤に対し、判示のような陳情をしなければならない必要は全くなかつた旨主張し、若狹も、検察官の取調に対しては昭和四七年四月中旬ころ被告人佐藤に対し判示のとおり第一回請託を行つた旨供述していた(甲三35、同41)が、当公判廷ではこれを否定する証言をしているので、以下検討する。

(一) まず、大型機導入時期の関係について、若挾は当公判廷(七五回、八一回)において、「当時、事務的には運輸省、日航、全日空三者の間で、沖繩線以外は四九年度導入という線が既定の事実になつていたし、沖繩はまだ復帰していないということで議論されていなかつたから、全日空からこの問題を提起する必要は全くなかつた。」旨供述している。

しかしながら、関係各証拠によれば、同四七年四月ころ当時、航空局幹部は、国内幹線への大型機導入は、沖繩線を除き同四九年度からが相当であるが、日航と全日空の話合いがつけば同四八年度からこれを認めてもよいとの見解であつたこと(内村〈一二七回〉、住田〈一二二回〉、山本〈一〇五回、一〇六回〉、橋本(昌)〈一一六回〉の各証言等)、当時全日空では同四九年度からの大型機導入を希望していたこと(甲二127中、全日空作成の四七・四・一九付「国内線えの大型機導入問題」及び全日空取締役社長若狹得治作成の同四七年五月八日付「航空企業の運営体制について(願)」)、他方、日航は、同四六年九月策定の「四七〜五一年度長期計画」の中で同四八年度にB―七四七LR三機を国内線に転用する旨の計画を立て(甲二216等)、全日空に対しても同四七年一月ぐらいから同四八年度大型機導入の線で話合いをしたい旨の申し入れをしていたこと(藤原証言〈六四回〉及び前記四七・四・一九付「国内線えの大型機導入問題」。なお、若狹も前記のように日航でも同四九年度からの大型機導入が既定のことであつたと証言しながら、他方では、「日航は余裕機材を持つていたので、できるだけ早く国内へ入れたいという気持があつたと思う。」〈七三回〉、「日航も四九年度ということを一応前提にしながら、できれば少しでも早くという気持を持つていたことは確かであるが……」〈七五回〉、「完全に四九年度というふうに日航が我々に歩調を合わせるという状態にはなつていなかつたと思う。」〈七五回〉などと、あいまいながらも日航が同四八年度からの導入を主張していたことを自認する趣旨の証言をし、また、「日航が一般の国内線について四九年度という意思を明確に表示したのは四七年六月のことである」旨の証言〈七三回〉をしているのである。)、日航が同四七年正月に福岡―東京路線に全日空の同意を得ないでB―七四七LRを臨時に就航させたため、全日空は、日航がジャンボの国内線就航を急ぐあまりデモンストレーションとして行つたものと受けとめ、航空局及び日航に対し抗議したこと(甲二49中同四七年一月六日分、若狹証言〈七五回〉等)、日航は同四七年五月一五日沖繩復帰後国内線となる沖繩線に同年四月一五日からB―七四七LRを就航させたい旨の事業計画変更認可申請を同年三月三一日付で運輸大臣に対して行つたこと(甲二126等)、右事実を若狹、藤原らが知り、全日空ではこれに反対していたこと(若狹〈七五回〉、藤原〈六四回〉の各証言等)が認められるところ、右認定の状況下においては、たとえ日航が同四八年度から大型機を国内線へ導入するには全日空の同意を得ることが必要であつたとしても、被告人佐藤において同四五年一一月二〇日閣議了解を具体化した施策を定めるべく作業中であることを知つた全日空側としては、この機会に、国内線への大型機導入時期についても全日空の希望する同四九年度からと明定してもらい、早期導入を図ろうとする日航の動きを封じ、大型機導入問題に結着をつけようと考え(若狹も当公判廷〈七五回〉において、大型機導入時期に関し、航空局、日航、全日空三者の意見を明確にしていただくことが非常にいいんじやないかと考えていた旨供述している。)、同被告人に対しその旨請託することに何ら不思議はなく、むしろ当然の行動と言うべきであり、このことは、現に藤原が同四七年四月一九日、監督課長山本に対し、「大型機の国内線導入は同四九年度からとするのが最も妥当であり、沖繩線についても右の同四九年度導入の基本線に沿つて結論を出されるべきものと考える」旨を記載した前記四七・四・一九付「国内線えの大型機導入問題」を提出し、また、そのころ、若挾らと相談のうえ被告人佐藤に対し右と同旨のことを申し述べていること(藤原証言〈六四回〉、なかんずく判示(第四・二・3)のとおり若狹自ら同四七年五月八日ころ藤原と共に運輸政務次官室に被告人佐藤を訪ね、大型機の国内線導入は同四九年度以降とされたいこと等を記載した前記五月八日付「航空企業の運営体制について(願)」を手交していること(右事実は、被告人佐藤、若狹乃び藤原のいずれもが当公判廷において認めている。)によつても裏付けられているのである。

(二) 次に、若挾は、当公判廷において、東亜国内航空の幹線参入問題について、「当時同社はまだプロペラ機のみを運航し、しかも前の年に起こしたばんだい号事故の後始末や安全対策の確立に全社挙げて取り組まなければならない状態で、とても幹線に直ちに参入できる状況ではなかつたから、同社の幹線参入を目前の迫つた事態であるとして、被告人佐藤にお願いに行くことは考えられないことである。」旨(七五回)、また、ローカル線の同社とのダブル・トラッキングの問題について、「東亜国内航空という会社ができた以上、我々も何とか同社を育てていきたいという考えはあつたけれども、同社の進出を恐れて被告人佐藤にお願いに行かなければならないということは考えられないことである。」旨(七五回)それぞれ供述している。

しかしながら、被告人佐藤から全日空に渡された第一次佐藤案(甲二127中四七・三・二二付「航空企業の運営代制について(案)」)には、既に判示のように「東亜国内航空について、昭和四七年度にローカル線の一部にジェット化を認め、その運航実績をもとに幹線運営を認める」とされていたこと、若狹が他方では、「(第一次佐藤案のローカル線の二社運営の項に判示のように『過当競争の弊が生ずることのないよう十分慎重を期し』との文言を付加した理由を尋ねられ)東亜国内航空が将来成長した場合当然ジェット機を使うわけで輸送力も大きくなるわけだから、無制限に入つてきて競争を挑むことになるとダンピング等過当競争となる。全日空のロードファクターが七〇パーセント以上になつた場合ダブル・トラックを開いてもいいと考えていた。」旨、判示第一回請託の内容と符合する証言(七三回)をしていること、藤原が「東亜国内航空の幹線参入ということは全日空にかなりの影響を及ぼすことはもちろんである。」旨の証言(六九回をしていること、当時、東亜国内航空の運営するローカル線は、利用率が低い路線が大部分であつたのに対し、全日空の運営するローカル線は東京、大阪を中心とした利用率の高い路線であつたため、全日空としては、東亜国内航空とダブル・トラッキングを実施しても得るところはほとんどなく、その実施をできる限り押さえようとする態度をとつていたこと(窪田証言〈一八回〉等)、全日空が被告人佐藤に提出した第一次佐藤案に対する修正意見書(甲二145)に判示のように東亜国内航空の幹線参入につき、「日航のシェアの段階的縮小において実施する」旨の文言が付加されていること、そしてなによりも前記のように若狹自ら被告人佐藤に手交した前記五月八日付「航空企業の運営体制について(願)」の中に、「東亜国内航空の幹線参入は日航の段階的縮小において実施されたい」、「(幹線について)現在における需要の客観的情勢から判断し昭和四七年度、四八年度の増便、増席による供給力の増加の要はないものと考える」、「ローカル線のダブル・トラッキングについては利用者の利便を第一に考慮するとともに、その実施に当たつては慎重を期されたく、その実施においては、平等に相互乗入れを行うように考えていただきたい」旨それぞれ記載されていること等に徴すれば、若狹の前記証言は到底信用できないものと言われなければならない。

(三) 更に、若狹は、当公判廷(七五回)において、「大型機導入時期の問題、東亜国内航空の幹線参入とか同社とのダブル・トラックの問題は、むしろ事務的な問題であるから、私自身が特に被告人佐藤にお願いに行かなければならないということは考えていなかつた。」旨供述しているが、右事項は事柄の性質上全日空の営業に重要な影響を及ぼすものであること、陳情の相手がいわゆる事務レベルの担当官ではなく政務次官であること、前記のように若狹自らが昭和四七年五月八日ころ運輸政務次官室を訪ね、被告人佐藤に対し右各事項について全日空の希望を記載した前記五月八日付「航空企業の運営体制について(願)」を手交していること等に徴し、右証言は信用できない。(かりに若挾の証言するように、右の諸点が事務的な問題で若狹自ら陳情に行く必要がないと考えていたのなら、右五月八日ころの時点でも藤原のみを行かせれば足りたはずである。)また、若狹は、当公判廷(七五回)において、「右のような問題は別に文書で明記して意見を出すはずになつていたから、特にお願いしなければならない状態ではなかつた。」とも供述しているが、右証言は、当時全日空で右のような文書を提出する予定になつていたことを窺うに足りる証拠が全くない(右の五月八日付「航空企業の運営体制について(願)」を提出することになつたのは、判示のように同四七年四月末ころ第二次佐藤案を入手したことがきつかけとなつたものである〈若狹証言・七五回〉。)ことに徴し、たやすく信用できない。

以上に検討したように、他の関係各証拠と対比し、弁護人の主張に沿う若狹の前記証言は信用できないのに反し、判示第一回請託を行つた旨の同人の検察官調書の供述記載は信用して差し支えないものと言わなければならない。

二 「第二回請託(昭和四七年五月八日ころ)とこれに至る経緯」について(判示第四・二の関係)

1弁護人は、第二次佐藤案は、各界の集約された意見を第一次佐藤案に則して配列整理したメモ書きであつて、被告人佐藤の意見を書面化したものではないし、外部に示すことは全く予定していなかつたものである旨主張する。

しかしながら、第二次佐藤案(甲二136、同153、同154)は、その文章の表現形態及び内容等に徴し、単に各界の意見をそのまま配列したものとは認め難いのみならず、判示のように被告人佐藤が右案を昭和四七年四月二八日に開かれた航対委メンバー数名の会合において提示していること(山本〈一〇五回〉、住田〈一二二回〉及び松末孝雄〈一〇〇回〉の各証言、関谷勝利の検察官調書〈甲三60〉、甲二335、同336、同337)、判示のように被告人佐藤は内村航空局長にも第二次佐藤案を示して意見を求めていること、(内村証言〈一二七回〉)、被告人佐藤は、判示のように、国内幹線の範囲に那覇を含め、幹線輸送力の増強基準として並記した三案のうち第3案を採用することとしたほかは、第二次佐藤案と形式、内容ともほぼ同一の第三次佐藤案を作成して同四七年五月二六日の航対委に提出していることなどに徴しても、第二次佐藤案は東亜国内航空、全日空等の各意見を考慮して同被告人の見解を取りまとめたものであることが明らかであるから、弁護人の右主張は採用できない。

2弁護人は、第一次佐藤案について、全日空の依頼により同社に有利な扱いをしたのではないとして、被告人佐藤が同案に判示のような内容を記載した理由に関し種々主張するが、同案作成に至る判示経緯及びその内容自体に徴し、同案は若狹の第一回請託及び藤原らの判示陳情をも配慮したものであることは明らかであると言わなければならない。

なお、弁護人は、第一次佐藤案では大型機の国内線導入時期について触れていなかつたのに、第二次佐藤案にこれを記載した理由の一つとして、町田試案(甲二149)や事務当局案(甲二143)にも大型機の国内線導入時期を同四九年度とする旨記載されていたからである旨主張する。しかしながら、右町田試案が作成されたのは、後に説示するように第二次佐藤案の作成された約一か月後の同四七年五月中旬ころのことであり、また右事務当局案は、判示のように、橋本(昌)が、被告人佐藤において、大型機の国内線投入時期は沖繩返還後の那覇を含めて同四九年度からとする等、後に第二次佐藤案となつたと同じような内容の通達案を作成しようとしているのを知り、これを住田ら上司に報告したことから、航空局事務当局においてこれを検討した結果、その対案として作成されるに至つたものである(住田、内村、橋本(昌)の各証言、甲二124中一番下に編綴され、右肩に①と赤鉛筆で書かれている「改訂」と表示された「航空企業の運営体制について」、甲二118中上から四番目に編綴され、三枚目裏に国内線大型化に関する書き込みのある「航空企業の運営体制について」)から弁護人の右主張は採用できない。また、弁護人は、沖繩線は同四七年五月一五日沖繩の本土復帰後は国内線になるので、これを別に扱う必要はないという意見が強かつたから、第二次佐藤案には沖繩線についても同四九年度以降大型化を認める旨記載したものである旨主張する。しかしながら、内村(一二七回)、住田(一二二回、一二六回)、山本(一〇五回)の各証言及び甲二126中「東京―沖繩B―七四七型機導入に関する関係各課から意見照会に対する回答について(供覧)」等関係各証拠によれば、航空局事務当局は、日航の同四七年四月一五日から沖繩線にB―七四七LRを就航させたいとの同年三月三一日付事業計画変更認可申請に対し、従来から日航が同線を国際線として運営してきた経緯及び復帰前後に予想される需要増にかんがみ、右申請のとおり早期導入が必要であると判断し、これを認可すべく処理しようとしたが、その段階で被告人佐藤から、間もなく国内線になる沖繩線への大型機投入を日航に認めるのは、全日空に先んじて国内線を大型化してもよいとの一種の既得権を日航に与えることとなるから反対である旨の強い主張があつたため、右認可を留保せざるを得なかつたということが認められるから、弁護人の右主張は失当である。

3全日空が第二次佐藤案を入手した経路について、検察官は、被告人佐藤が昭和四七年四月末ころ藤原に第二次佐藤案を手交したと主張するのに対し、弁護人は、全日空が入手した第二次佐藤案は、町田事務次官が若狹に対し同人の秘書吉本を通じて渡した一通のみである旨主張する。

そこで検討するに、町田(一三〇回)、若狹(七五回、八一回)の各証言、甲二127中右肩「47(4/28)と記入されている「航空企業の運営体制について」(以下、4/28書面という。)等関係各証拠を総合すると、町田から若狹に対し同人の秘書を通じて第二次佐藤案(4/28書面)が渡されたことが認められる。他方、藤原の「はつきりしないが、被告人佐藤から第二次佐藤案をもらつているかもしれない。」旨の証言(六四回)、若狹の第七五回公判における「事務次官から渡された第二次佐藤案(4/28書面)のほかに、おそらく藤原君からも示されたと思う。」旨の証言(もつとも若狹は、第八一回公判では、これを否定する趣旨の証言をしている。)、若狹の検察官調書における「四七年四月下旬ころ、藤原君が佐藤政務次官に呼ばれ、最初の案に手直しをしたものだと言われ、新しい案をもらつてきた。」(甲三35)旨及び「4/28書面と同じ文書は、四七年四月下旬ころ藤原君が佐藤政務次官からもらつてきたので見ておる。」(甲三42)旨の各供述記載、北御門洋の検察官調書(甲三20)における「この案(第二次佐藤案)は最初私が(被告人佐藤の)秘書吉井から入手して藤原に届けた。これと同じ内容の書面を藤原が直接佐藤先生からもらつてきたこともあるはずである。というのは、藤原がこの案を持つて私のところに来て、『佐藤先生からこれを渡されたが、部下の北御門があなたの秘書から既に手に入れているとも言えず、黙つて御礼を言つてもらつてきた』と言われたので覚えているからである。」旨の供述記載を総合すれば、全日空では、町田から入手したもののほかに、藤原が被告人佐藤から第二次佐藤案を人手していたものと認められないではないが、そのように断定するには、全日空から押収された第二次佐藤案が4/28書面のみである(なお、同書面には、その上部欄外に「事務次官→PTEL」と記載されている〈ただし、その文字は、だれによつてどのような機会になされたのかは不明ではあるが、黒く塗りつぶしてあつて、これを透かして見ると内眼でかろうじて右のように読み取れる。〉ことに徴し、藤原の証言するように町田から若狹に対し同人の秘書吉本を通じて渡されたものと認めるのが相当である。)ことに徴し、なお疑問が残る。しかし、少なくとも全日空が町田から第二次佐藤案を入手したこと及び判示のように若狹がこれを見て第二回請託に及んだことは間違いない。

4弁護人は、第二回請託について、それは被告人佐藤に対する請託というものではなく、同被告人を含めた運輸省に対する意見の提出にすぎないものである旨主張する。

しかしながら、前記のように若狹が昭和四七年五月八日ころ藤原と共に運輸政務次官室を訪ね、被告人佐藤に対し、判示の内容を記載した前記の同年五月八日付「航空企業の運営体制について(願)」を手交したことは明らかであるところ、右書面の内容自体及び前記のように、当時同被告人が同四五年一一月二〇日の閣議了解を具体化した施策を取りまとめるべく作業中で、その一環として第二次佐藤案を作成しており、若狹、藤原もそのことを知しつしていたことに徴すれば、若狹、藤原がわざわざ同被告人を訪ねて右書面を手交したのは、同被告人に対し、右書面に記載した事項を右施策の中に盛り込まれたい旨を依頼する趣旨以外の何物でもなく、また、同被告人もそのように理解していたことは、極めて明らかであると言わなければならない。

なお、若狹は、当公判廷(七五回)において、右五月八日付「航空企業の運営体制について(願)」の中に、「全日空不定期便運航範囲については、従来の如き日本航空による制限的取扱いを改めて、一定の地域範囲においては自由に運航が可能なようにすべきである」と記載したことに関し、「全日空のチャーター便の運航については、同四七年四月ころから日航も了解のうえ無契約状態となつており、日航側から制約を受けることは既に事実上なくなつていたのであるから、被告人佐藤に対し右制約の撤廃方を依頼する必要はなく、チャーター便は国際定期に出るワンステップとしてやつていることを理解していただくという考えでそういうことを申し上げたにすぎない。」旨供述している。

しかしながら、藤原(六〇回、六四回)、橋爪(三五回)及び須藤晨三(三一回)の各証言、甲二326、同368等関係各証拠を総合すると、判示(第二・一・2及び第二・二)のように全日空はかねて近距離国際定期航空への進出を念願としていたが、同四五年一一月二〇日の閣議了解においてはこれが認められるに至らず、「近距離国際チャーター航空については、日航と全日空の提携のもとに余裕機材を活用し、わが国国際航空の積取比率の向上に資するよう努める」とされるにとどまつたこと、かように、全日空としては、近距離国際線進出への足がかりを得たものの「チャーター」方式に限定され、しかも、「日航との提携」及び「余裕機材の活用という制限が課せられたことに強い不満を抱いていたこと、右閣議了解後全日空は、運輸省の行政指導のもとに、近距離国際チャーターの運営に関して日航と協定を結ぶべく交渉に入つたが、全日空のチャーターの拡大により定期の領域まで侵されることを恐れた日航側は、チャーターの仕向地を香港に限定し、運航回数を平均月二回、最大月五回、六か月で一二回に制限することなどを主張し、これら制限を極力回避しようとする全日空側と激しく対立したこと、しかしながら、結局は「日航との提携」、「余裕機材の活用」等の閣議了解の文言を最大限に援用した日航の主張に全日空が押し切られる形となり、同四六年二月一八日、両社は「近距離国際チャーター航空の提携に関する基本契約書」(甲二368)に調印したのであるが、右契約書によれば、全日空がチャーター便を運航する場合には、

① 香港以外を仕向地とするには日航との協議を必要とする

② 月間運航回数は八往復以内とする

③ 外国政府に対する許可申請は日航が代行する

④ 運航実施日三〇日前に日航に通知してその同意を得る

等の制約が付けられることとなつた、しかして両社は、右契約の有効期限である六か月間を経過した同年八月一八日付で第二次契約を締結し、これによつて仕向地としてバンコクが追加され、月間運航回数が増加され、また、運航実施につき日航側に通知すれば足りるとされるなど若干緩知されたものの、当初契約における基本的な制限条項はなお残されており、これを不満とする全日空がその後の契約締結に応じようとしなかつたため、結局新契約を締結するに至らないまま第二次契約の有効期限である同四七年三月三一日を経過し、同年四月以降運輸省は、両社間の従前の契約の枠内で承認を決定することにより全日空のチャーター便の運航に事実上の歯止めを掛けていたことが認められるところ、右認定の経緯に徴すれば、若狹において、右閣議了解を具体化した施策を策定しようとしている被告人佐藤に対し、同施策中においてチャーター便に関する日航による制約を撤廃されるよう依頼するのはむしろ当然のことであると言うべきであり、また、右五月八日付「航空企業の運営体制について(願)」中の右文言自体及び若狹が他方では、「無契約になつても、運輸省が全日空のチャーター便一便ごとにその承認の可否を決めるに際し、日航の強い反対があれば簡単には承認しないということもあり得る。日航側が閣議了解にいう日航との提携といつた条件を通達中に明記すべきだという主張をすることもあり得る。新契約ができない以上は旧契約によつて処理するというのが日航の方の考えであつた。」旨の証言(七五回)をしていることに徴しても、若狹の日航による制約の撤廃を依頼する必要はなかつた旨の右証言は到底信用できないものと言わなければならない。

三 「第三回請託(昭和四七年六月下旬ころ)とこれに至る経緯」について(判示第四・三の関係)

1弁護人は、被告人佐藤は、日航に対しても、全日空、東亜国内航空に対すると同様、第一次佐藤案を渡してこれに対する意見を提出するよう求めた旨主張する。

しかしながら、日航関係者(橋爪〈三五回〉、朝田〈四一回〉、松末孝雄〈一〇〇回〉)の被告人佐藤から第一次佐藤案を示されたことはない旨の一致した証言及び日航側から被告人佐藤に対し第一次佐藤案を修正する形式での意見書が提出された形跡がないこと(運輸政務次官から第一次佐藤案を渡され、これに対する意見を提出するよう求められながら、航空会社である日航がこれに応じないはずはない。)に徴し、少なくとも日航側が同被告人から第一次佐藤案を渡され、これを修正する形式で意見を提出するよう求められたことはなかつたものと言わなければならない。

2弁護人は、被告人佐藤が町田事務次官から町田試案(甲二149)を手交されたのは、昭和四七年三月下旬か四月のごく上旬である旨主張し、同被告人も当公判廷において同旨の供述をしている。

しかしながら、町田(一三〇回)ほか事務当局幹部(内村〈一二七回〉、住田〈一二二回〉、山本〈一〇五回〉、橋本(昌)〈一〇九回〉)の一致した証言によつて認められる判示の町田試案作成の経緯に徴し、同案の作成時期が同年五月中旬ころであつたことは間違いがないと言わなければならない。

3弁護人は、第三次請託について、当時幹線増便シェアについて日航が激しく巻き返しに出てくるなど予想されるような状況にはなく、また、前に述べたとおり、当時東亜国内航空も、まだとても幹線に直ちに参入できるという状態ではなく、しかも、当時は、かねてから懸案の航空三社の運賃値上げについて最も重要な段階を迎えている時期であり、昭和四七年六月一三日には航空三社の社長がそろつて丹羽運輸大臣に陳情に行つているのであり、更に、翌六月一四日には日航のDC―八型機がニューデリーで墜落事故を起し、同社は五月一五日の事故に続いて一か月のうちにDC―八型機を失い、しかも多数の人命を失うという非運に遭遇しているのであつて、若狹がかかる時期に些細なことのために陳情に行くことは考えられない旨主張し、若狹も、検察官の取調に対しては同四七年六月下旬ころ被告人佐藤に対し判示のとおり第三回請託を行つた旨供述していた(甲三43)が、当公判廷(七五回)ではこれを否定する供述をしている。

しかしながら、若狹が当公判廷(七五回)で、第三次佐藤案に関し、「日航は国内幹線の運用については非常な執念を持つていたから、幹線の民業優先というような問題について反対することは当然であろうと考えていた。日航の猛烈な巻き返しがあり得るだろうと思つていた。」旨供述していること(なお、弁護人の右主張のうち、東亜国内航空は幹線に直ちに参入できる状態ではなかつたから、若狹が陳情に行くことはあり得ないとの点が理由のないことは、既に説示したとおりである。)及び若挾は当公判廷(七五回)で、判示のとおり第三回請託を行つた旨の検察官調書の供述記載について、「おそらく検事がそういうふうにお考えになつたんじやないかと思う。」旨弁解しているが、若狹が供述しない限り右の時期に右の内容の陳情をしたことを検察官において知り得るはずはなく、また検察官が勝手に想定して記載できる事柄でもないこと等に徴し、「ここで示された案(航対委で示された第三次佐藤案)のうち、国内幹線に東亜国内航空が参入する場合の具体策として、三対二対一の比率が守られれば全日空としては好都合だが、日航が猛烈な反対をし巻き返しを図ることを予想したので、その後の推移を聞いたり、とにかくこの比率で実現していただくよう佐藤政務次官にお願いしておきたいと思い、昭和四七年六月下旬ころ私一人で政務次官室に伺い、(判示のとおり申し述べて依頼した)」旨の若挾の検察官調書の供述記載は信用して差し支えないものと認められるのに反し、これを否定する同人の証言はたやすく信用できないものと言われなければならない。

四 「運輸大臣通達の成立(昭和四七年七月一日)とこれに至る経緯」について(判示第四・四の関係)

1弁護人は、昭和四七年六月二〇日過ぎに松尾会長が同人の取りまとめた案(甲二133)を被告人佐藤に提示し、これについて右両名で意見を交換したのであるが、その際、松尾は、沖繩に日航のジャンボを入れることを認める代わりに全日空のチャーター便の地点をもつと大幅に増やすのも一つの方法であるとか、幹線の増便については、航対委の意向もあるがもう少し事務当局で検討させたらよいなどの提案を行い、更に事務当局と詰めてみたいということであつたので、同被告人はこれを了承し、その後、松尾は町田事務次官と協議し、その内容をメモしたもの(甲二150)を同月二八日ころ同被告人に届けた、そこで、その案を基にして同被告人が町田に対し、日航について国際航空貨物について「具体策を樹立するものとする」とあつたのを「提示するものとす」としてほしいこと、全日空について「遂次近距離国際チャーターの充実を図る」としてほしいこと、東亜国内航空について「幹線の路線の選択は、同社の自主的判断による」としてほしいこと、など数点の要望をした(甲二140)ところ、町田から事務当局に表現上の手直しをさせ、大臣に禀議起案するとの意見具申があつたので、同被告人はこれを了承した(なお、この時点で同被告人は、町田に対し、全日空について、「将来不定期航空の運営についても検討するものとする」という表現にすることは要望していない。)、その後同月三〇日、山本監督課長は、町田から、一部字句の修正を行い亶議起案するよう指示されて案を清書し、更に町田は、右清書したものの全日空の欄に「なお、将来不定期航空の運営についても検討するものとする」と書き入れ(甲二124中上から四番目に編綴され、二枚目上部に赤鉛筆で「なお将来不定期航空の運営についても検討するものとする」と加筆のある「航空企業の運営体制について(案)」)、翌七月一日、内村局長が右書入れをしたものを更に清書したもの(甲二118中一番下に編綴され、一枚目が「なお将来不定期航空の運営についても検討するものとする」で終わる「航空企業の運営体制について(案)」を同初告人に提示し、「なお書」について問題があるという意見を述べたので、同被告人が松尾に連絡して協議した結果、事務当局の言い分も分るが、航対委の意向も無視できないということから、結局、同被告人が「なお、近距離国際線の運営には、チャーター方式のほか、不定期航空としての運営方式もあるが、現時点においてはチャーター方式によることとする」という玉虫色にしたらどうかと提案したところ、松尾がこれに賛成し、内村もこれならば異存ないと了承し、最終案(甲二125)となつたものである旨主張し、被告人佐藤も検察官の面前及び当公判廷で同旨の供述をしている。

しかしながら、橋爪(三五回)、町田(一三〇回)、内村(一二七回)、山本(一〇五回)の各証言及び甲二133、同140、同124中上から四番目に編綴されている前同書面、同118中一番下に編綴されている前同書面、同125等関係各証拠を総合すると、松尾の作成した判示松尾調整案(甲二133)が修正されて判示大臣通達の成案が得られるに至つた経緯の大筋は、判示認定のとおりであることが明らかであり、右認定に抵触する被告人佐藤の右供述は信用できない。

2弁護人は、チャーターと不定期の内容は実質的に同一であつて、不定期即チャーターと言うべきものであり、若狹、藤原もそのように理解していた旨主張し、若狹、藤原も当公判廷において右主張と同旨の供述をしている。

しかしながら、町田(一三〇回)、山本(一〇五回)、橋本(昌)(一〇九回)、内村(一二七回)、橋爪(三五回)の各証言、北御門洋の検察官調書(甲三20)、佐藤の弁護人請求の番号97を総合すれば、航空法上は、航空運送事業(同法二条一六項)を定期航空運送事業と不定期航空運送事業に分け、定期航空運送事業について、その内容を定めて定義を与え(同条一七項)たうえ、定期航空運送事業以外の航空運送事業を不定期航空運送事業というと定めている(同条一八項)が、我が国航空行政の実務では、右の不定期航空運送事業を更に狭義の不定航空運送事業とチャーターの二つに分け、前者はあらかじめ路線を定めてあるが、定期航行をするほどの定着した需要がないなどの理由により、一定の日時を定めて航行しない(すなわち、不定期にしか航行しない)形態のもの、後者はあらかじめ路線も日時も定めないで、たまたま客の需要があつた場合にその目的地へ向つて航行する形態のものとするが、ただしチャーターについては、IATA(国際航空輸送協会)の取決めに従い、それを利用できる客をオウンユースグループとアフィニティグループに限定していたこと、そのため、右狭義の不定期では不特定の旅客を運送することができるが、チャーターではこれはできず、また、右狭義の不定期は需要いかんによつては定期航空運送事業に移行する可能性を秘めているものであつたこと、全日空としては国際線についてできれば右の狭義の不定期をやらせてもらいたいという切実な願望をもつていたことが認められるから、若狹、藤原の右各証言は信用できないし、弁護人の右主張も採用できない。

第三  被告人両名関係

「若狹、藤原が被告人両名に対する金員の供与を共謀し、その実行方を丸紅に依頼したことなど」(判示第六の関係)及び「被告人両名がそれぞれ収賄をしたこと」(判示第七の関係)について

一被告人橋本の弁護人は、同被告人は、私邸で伊藤と面接をしたこともないし、秘書の茂木幸治(以下、茂木という。)をして伊藤から現金五〇〇万円を受領させたこともない旨主張し、同被告人は検察官の面前及び当公判廷において、茂木は当公判廷において、それぞれ同弁護人の右主張と同旨の供述をしている。

しかしながら、伊藤は、当公判廷(四七回、四九回、五〇回)において、「副島に判示(第六・五)指示を与えた後、その日のうちに電話で被告人橋本との面会約束を取り付けたうえ、右約束に従い、昭和四七年一一月一日ころの午前八時過ぎころ被告人橋本の私邸に赴き、同邸応接間において同被告人と会い、同被告人に対し、名刺を渡して自己紹介し、間近に迫つた衆議院議員選挙の話などをしながらころあいを見て、『全日空からお預りしてまいりましたものです』と言いながら、持参した現金五〇〇万円入りのハトロン紙包みを取り出してテーブルの上に差し出したところ、同被告人が『後程担当の秘書の茂木に取りにやらせますから』と言つてその場ではこれを受け取らなかつたので、右包みを持つたまま橋本邸を辞去し、そのまま丸紅東京支店に出社した。間もなく茂木から電話連絡を受け、右金員受渡しの時間を打ち合せたうえ、同日午後の約束の時刻に丸紅東京支店を訪れた同人と一五階の応接間で会い、互いに名刺を交換した後、茂木に対し、『朝、橋本先生に申し上げておきましたものです』と言つて右現金五〇〇万円入りの包みを差し出したところ、同人はこれを受け取つて帰つた。」旨明確に証言しているところ、右証言は、

① 若狹(乙62)、藤原(甲三44)、副島(甲三17)及び伊藤(甲三16)の各検察官調書、大久保、副島及び伊藤の各証言、コーチャンに対する証人尋問調書第二巻(甲三2)、同第三巻(甲三3)、クラッターに対する証人尋問調書第三巻(甲三6)、同第四巻(甲三7)、甲二281中の「No.A二八二八」、甲二232ないし235、甲二237等関係各証拠を総合すれば、伊藤が茂木を介し被告人橋本に現金五〇〇万円を手交するに至つた経緯について、判示(第六・一ないし五)の事実が認められること

② 伊藤は、右証言に際し、被告人橋本の私邸の外観や通された応接間の模様、同私邸に入つてから退去するまでの経過やその状況、同被告人の服装や同被告人との会話の内容等について、かなり具体的に供述しているうえ、同私邸の外観について「橋本先生から受ける感じからして、日本風な建物だと予想して行つたら、白つぽい洋館建ての建物であつたので、その点は非常に明確に記憶している。」旨の証言(四九回)をしているところ、これは西岡ハナの証人尋問調書に添付の被告人橋本私邸の写真綴中の1ないし3と符合し、また、表札について「もう一つ橋本という姓じゃない姓の表札があつたんではないかという漠とした記憶がしている。」旨の証言(四九回)をしているところ、これは右写真綴中の8の表札に橋本と並んで「後藤」という姓が印されていることと符合し、更に、通された応接間に関する「玄関を入つてすぐの応接間であり、広さは一〇数畳で、ドアではないが軽いもので真ん中で仕切つて二つに使用できる部屋であつたような気がするし、待つている間に珍しい飾り物とか置物が目に入つた。」旨の証言(四九回)は、右写真綴中の12ないし18、20とおおむね符合すること(なお、伊藤が捜査官から教えられるなどして被告人橋本の私邸の内外の状況を知り得たことを窺わせる証拠は皆無であり、また、伊藤の証言によれば、同人が本件の前又は後に同私邸を訪問したことは一度もないことが認められる。)

③ 伊藤の使用していた名刺整理箱(甲二282)の中にあつた茂木の名刺は、伊藤の「茂木に対し本件五〇〇万円を手交した際、初対面であつた同人と名刺交換をしたと思う。同人とはその時一回だけしか会つていない。」旨の証言(四七回、四九回)を裏付けるものであること(右名刺は、茂木証言〈一三四回〉及び甲二363によれば、茂木が当時使用していたものであること明らかである。)

④ 伊藤は、被告人橋本に対する本件金員の交付のほか、これと関連する自己が配布方を分担した二階堂に対する現金の交付についても、茂木を介し同被告人に手交した日の前日かあるいは翌日ぐらいに、自らこれを実行した旨及びその際の状況を具体的に証言している(四七回)こと

⑤ 伊藤の本件金員授受に関する前記証言は、被告人橋本にとつて刑事責任上極めて不利益なものであるところ、伊藤には、同被告人と利害が対立しているなど虚構をねつ造してまで右証言をしなければならないような事情は全く認められないうえ、本件金員の授受を全面的に否認している同被告人の面前において、あえて右証言をしていること

などに徴し、十分信用に値するものと言わなければならない。そして、伊藤の右証言に関係各証拠を総合すれば、伊藤が判示のように茂木を介して被告人橋本に現金五〇〇万円を手交した事実を優に認定することができる。

なお、被告人橋本の弁護人は、伊藤の証言は、

① 被告人橋本が幹事長在任中、その私邸の玄関から数メートルのところに玄関を見通して臨時交番が設けられ、制服の警察官が交替で二四時間勤務して警戒に当たつており、玄関に近づいた者に対しては走つて来て氏名、用件を確認し、チェックしていたのが実情で、伊藤が警察官から全く尋問を受けず屋内に入れるはずがないにもかかわらず、「警察官から何のすい何も受けなかつた」旨証言していること

② 被告人橋本の私邸には門が存在しないにもかかわらず「門があつた」旨証言していること

③ 被告人橋本の母は、昭和四七年一〇月一八日死去、同月二三日自宅で葬儀が行われ、同年一一月七日埋葬が行われたのであるが、その間、縦五〇センチメートル、横三〇センチメートルの大きさの故人の黒枠の葬儀用の写真が同被告人の応接間に机を仮祭壇として安置され、その前に線香立と線香が用意され、また生花が供えられていたから、このような特別の状況は同年一一月一日前後ころ右応接間に案内された者にとつて直ちに気付かねばならないところであるにもかかわらず、これに気付かなかつた旨証言していること

に微し、信用できない旨主張する。

しかしながら、右①の点については、同弁護人主張のようなチェックが常に厳格に行われていたことを認めるに足りる証拠がないこと、右②の点については、約三年半も前のしかも一回限りの体験であることに徴すれば、伊藤に同弁護人主張のような記憶違いがあつても格別異とするに足りないこと、右③の点については、伊藤の証言によつて認められる同人の坐つた位置と前記写真綴中の20を対比すれば、同弁護人主張の仮祭壇は二つの応接間を仕切るアコーデオンカーテンのため死角に入り伊藤には見えなかつたものと推認されることにそれぞれかんがみ、同弁護人の右主張は採用できない。

また、同弁護人は、伊藤の名刺整理箱の中にあつた茂木の名刺について、丸紅の受付又は副島を通じて、同人の上司である伊藤に手交された可能性があり、その他何らかの理由で茂木の名刺が右整理箱の中に混入したものと推定される旨主張するが、右主張は、同弁護人の単なる推測であつてこれを裏付ける証拠がないのみならず、茂木の証言(一五八回)によれば、同人が接触していた丸紅の社員は副島が秘書課長に在任中は同人のみであるというのであるところ、副島は「茂木は四三・四年から来ていたが、名刺交換をしたのは初対面のときだけである。茂木の訪問を受け、私の都合で会えなくて、茂木が名刺を置いて帰つたということは、まずなかつたんじゃないかと思う。」旨の証言(四三回)をしていること及び茂木が伊藤の名刺整理箱の中に茂木の名刺が存在する理由について、「名刺はそのものそつくり印刷することができる」などと証言(一三四回)しているのみで、何ら首肯するに足りる説明をしていないことに徴し、同弁護人の右主張は採用できない。

二被告人佐藤の弁護人は、同被告人は副島と面接したことも同人から金員を受領したこともない旨主張し、同被告人も検察官の面前及び当公判廷において右主張と同旨の供述をしている。

しかしながら、副島は、当公判廷(四三回、四五回)において、「伊藤から判示(第六・五)指示を受けた後、その日のうちに電話で被告人佐藤との面会約束を取り付けたうえ、右約束に従い、昭和四七年一〇月三一日午前一一時二〇分ころ衆議院第二議員会館に赴き、受付で同被告人に対する面会申込みをしたうえ、三階三三九号室の同被告人の事務室において、秘書に同被告人への取次ぎを求め、秘書の連絡で奥の自室から出てきた同被告人と思われる男に対し、丸紅の秘書課長の副島である旨名乗り、『全日空からお預りしたものをお届けにあがりました』と言つて現金二〇〇万円入りの中型封筒を差し出したところ、その男はこれを受領した。」旨明確に証言しているところ、右証言は、

① 副島が被告人佐藤に現金二〇〇万円を手交するに至つた経緯について、被告人橋本に関し述べたように判示(第六・一ないし五)の事実が認められること

② 副島が昭和四七年一〇月三一日午前一一時二〇分ころ、衆議院第二議員会館の受付所において、被告人佐藤と面会すべく面会証を作成してこれを右受付所係員に提出したことを裏付ける確実な証拠があること(甲二165)

③ 被告人佐藤に対する本件金員の手交は、伊藤から判示のように福永、同被告人、加藤及び佐々木の四名に金員の手交方を指示され、本件当日、右四名を順次訪れて金員を手交して回つた一連の流れの中の一つである旨供述しているところ、同被告人以外の三名についても、面会約束を取り付けた状況及び金員を手交した状況等についてそれぞれ具体的に供述している(四三回)うえ、福永については本件当日午前一一時ころ、佐々木については同日午後一時三〇分ころ、いずれも議員会館受付所において、それぞれ同人らと面会すべく各面会証を作成して、これら右受付所係員に提出したことを裏付ける確実な証拠がある(福永について甲二241、佐々木について甲二242)こと

④ 副島の本件金員授受に関する前記証言は、被告人佐藤にとつて刑事責任上極めて不利益なものであるところ、副島には、同被告人と利害が対立しているなど虚構をねつ造してまで右証言をしなければならないような事情は全く認められないうえ、本件金員の授受を全面的に否認している同被告人の面前において、あえて右証言をしていること

などに徴し、十分信用に値するものと言わなければならない。そして、副島の右証言に関係各証拠を総合すれば、副島が判示のように被告人佐藤に現金二〇〇万円を手交した事実を優に認定することができる。もつとも、副島は、「金を渡した相手の顔を覚えていないので、その相手がこの法廷にいる被告人佐藤であるかどうかは思い出せない。」旨の証言(四三回)をしている。しかしながら、副島の検察官調書(甲三17)には「佐藤先生とは初対面であつたが、……最近になつて新聞紙上に佐藤先生の顔写真が載つているのを見ても当時の顔と佐藤先生と同じ顔であるので、本人に渡したものに間違いない。」旨の供述記載があるのみならず、副島の当公判廷(四三回)における供述によれば、同人は伊藤から直接被告人佐藤本人に金員を手交するよう指示され、同被告人との面会約束をとつたうえ、衆議院第二議員会館内の同被告人の事務室である三階三三九号室を訪れ、秘書に「丸紅秘書課長の副島であるが、先生にお目にかかりたい。先日アポイントをとつてある」旨を言つて被告人佐藤への取次ぎを求め、秘書の連絡で奥の議員執務室から出て来た恰幅のいい体格の男(同被告人の体格と矛盾しない。)に金員を手交したこと及び副島は右の事情等から金員を手交した相手が被告人佐藤であることに何ら疑念を持たなかつたことが認められるところ、右事実に徴しても、副島が金員を手交した相手は同被告人に間違いがないと言わなければならない。

なお、同弁護人は、被告人佐藤の昭和四七年一〇月三一日の行動は次のとおりであるから、同被告人には不在証明(アリバイ)がある、すなわち、

① 被告人佐藤は午前九時一五分ころ、清原章運転の自家用車で東京都世田谷区宮坂の自宅を出発し、午前九時五〇分ころ、同都渋谷区南平台一番二〇号電業ビル三階にある株式会社東急エージェンシー(以下、東急エージェンシーという。)渋谷スタジオに到着した。なお、同車はすぐ近くの東急本社中庭に駐車した。同被告人は、年内施行が確実視されていた総選挙に北海道第三区から立候補する予定で、その選挙用のポスター等に使用する同被告人の写真を撮影するため、同スタジオへ赴いたものである。

② 同スタジオでは、約一五分間の撮影準備の後、午前一〇時五分過ぎころから担当カメラマン内田伊佐夫によつて被告人佐藤の写真撮影が開始され、午前一一時ころこれを終了した。

③ 被告人佐藤は、午前一一時ころ、右清原運転の右車で右東急本社中庭を出発し、渋谷インターチェンジから首都高速道路を経て羽田空港に直行して午後零時過ぎ同空港に到着し、同空港内の全日空東京空港支店長室で先に同所へ来ていた秘書の吉井と合流し、また、同所で同支店長河瀬士郎と面談した。

④ 被告人佐藤は、右吉井と共に午後一時二一分(定刻同零時四五分)羽田発の全日空八七一便に塔乗し、午後二時三六分(定刻同二時五分)函館空港に到着した。同空港には函館の佐藤孝行事務所(以下、函館事務所という。)の秘書竹野俊也が同事務所の運転手佐藤徹之(以下、佐藤(徹)という。)と共に出迎えに来ていた。同被告人は、佐藤(徹)運転の自家用車に右吉井及び右竹野と共に乗車し、同空港から直行して函館市大手町五―一〇、日魯ビル内の函館事務所に到着した。なお、同ビル前に到着した際、同被告人は、玄関前で東亜国内航空の社員手塚一雄と言葉を交した。同被告人は、右総選挙で若い層の支持を得るため、親睦団体「昭和会」を結成し、自らその会長に就任していたところ、当日は、歌手森進一を招いて函館市湯川町一―三二―一函館市民会館(以下、市民会館という。)で、「昭和会ヤングの集いと森進一ショー」を開催することとなつていたため、函館へ来たものである。なお、右催物は、同被告人から委嘱された東急エージェンシーがその企画に当たつたものであるが、第一部「昭和会ヤングの集い」第二部「森進一ショー」として構成されていた。

⑤ 被告人佐藤は、函館事務所に到着後、同事務所において、来所中の川端久雄、阿部展三らと対談応接したり、秘書の宮本節子と「昭和会ヤングの集い」のあいさつ準備や森進一ショーの入場人員の集り状況、森進一のサイン入りポスターの出来具合等の事務打合せをしていたが、同四時ころに至り市民会館で準備に当たつていた昭和会事務局長石田勉から、既に聴衆が大勢集つており、入場させたいと思うので早目に来てほしいとの電話連絡を受けた。なお、右吉井はしばらく同事務所にいた後、隣接の宿舎国際ホテルに行き、同三時五六分チェックインを済ませ七二一号室に入つた。

⑥ 被告人佐藤は、市民会館から右電話連絡があつたので、午後四時過ぎに右竹野と共に佐藤(徹)運転の自家用車で函館事務所を出発し、途中函館駅前にある開設予定の選挙事務所(現在東急観光事務所)に立ち寄り、同四時三〇分ころ市民会館へ到着し、館長室に関館長を訪ねてあいさつをした後、既に聴衆の入場しているホールに行き、約三〇分から四〇分ぐらいにわたつて、各地から参集していた大勢の後援者や支持者の間を回りながらあいさつをしたり雑談したりした。

⑦ 午後六時三〇分ころ東急エージェンシーの社員佐藤鳴美の司会で第一部「昭和会ヤングの集い」が開会され、まず、昭和会事務局長の右石田が立つて昭和会の趣旨等について説明し、次に昭和会副会長の笠谷昌生が立つてあいさつをし、最後に昭和会々長である被告人佐藤が立ち、約一五分ないし二〇分にわたつてあいさつをし、かくして、第一部は同七時ころ終了した。次いで第二部の「森進一ショー」は、休憩を挾んで、同七時一五分ころ始つたが、冒頭に同被告人が歌手森進一の紹介に立ち、続いて同人に花束を贈呈し、その後ショーが行われ、同九時ころ終了した。同被告人は、フィナーレのとき舞台に立つてあいさつをし、幕が下りると直ちに玄関口に回り、来場の聴衆に森進一のサイン入りのポスターを渡したり握手したりして見送り、その後市民会館から徒歩五分ぐらいの距離にある自宅(函館市湯川町)に歩いて帰つた。

被告人佐藤の同四七年一〇月三一日の行動は右に述べたとおりであつて、同被告人は同日衆議院第二議員会館へは立ち寄つていないから、副島と会つたことも同人から本件金員を手交されたこともない旨主張する。

しかしながら、阿波俊夫(一五七回、一五九回)、副島(前記)、田中敬孝(昭和五五年七月二九日、同月三〇日の公判準備)、斉藤享(一六四回)及び高野富雄(一六四回)の各証言、内田伊佐夫(甲三56)、大澤晋(同59)、森岡勝(同58)、佐藤(徹)(同52)、竹野俊也(同51)、松山秀雄(同54)、佐藤鳴美(同55)及び戸村陽助(同53)の各検察官調書、甲一476、同418、同433、同471、甲二369、同348、同338、同165、同339、同341、同344、同311ないし314、同366、当裁判所の検証調書等関係各証拠を総合すれば、被告人佐藤の鉱和四七年一〇月三一日の行動は次のとおりであつたこと、すなわち、被告人佐藤は、午前九時五〇分ころ東急エージェンシー渋谷スタジオに到着し、同一〇時三〇分ころ同所における写真撮影を終え、直ちに衆議員第二議員会館三三九号室に赴き、同所において、

① 午前一一時ころから同一一時一〇分ころまでの間、財団法人東京港フェリー埠頭公社専務理事阿波俊夫から、この種公社に対する課税の軽減問題等に関する陣情を受け、

② 同一一時二〇分ころ前記のとおり副島から現金二〇〇万円の供与を受け、

③ 同一一時三〇分ころ大澤晋から同人の就職斡施方の依頼を受け、

④ 同一一時四五分ころから約一〇分間、函館市から上京した後援者である森岡勝の訪問を受け、

自ら右訪問者と応接し、その後、午後五時一七分(定刻同五時)発の全日空八七九便に搭乗して函館に向い、同六時二九分(定刻同六時二〇分)同空港に到着し、出迎えに来ていた前記竹野と共に佐藤(徹)運転の自家用車で同空港から函館市民会館へ直行し、定刻の午後七時を約一〇分ないし一五分遅れて同七時一〇分ないし一五分ころ開始された第一部において、自らあいさつをしたことが認められ、清原章(一五九回)、西川菊三郎(同)、大澤晋(一六〇回)、森岡勝(昭和五五年七月三〇日の公判準備)、内田伊佐夫(一六〇回)、佐藤(徹)(同月二九日の公判準備)、竹野俊也(同)、田中裕子(同)、細木シズエ(同)、石川恵子(同)、宮本節子(同月三〇日の公判準備)、手塚一雄(一六〇回)、秋元裕子(同月三〇日の公判準備)、松山秀雄(一五七回)及び笠谷昌生(一六〇回)の各証言並びに被告人佐藤の検察官の面前及び当公判廷における各供述中、右認定に抵触する部分は、前掲各証拠及び河瀬士郎の証言(一六〇回)、西川菊三郎(甲三39)、石川恵子(同40)、秋元裕子(同57)の各検察官調書、甲二342、同345、同347に照らし、到底信用できない。よつて、同弁護人の右主張は採用の限りではない。

三被告人両名の各弁護人は、かりに被告人両名それぞれに本件各金員が供与されたという事実が認められるとすれば、その各供与の主体は全日空ではなく丸紅である旨主張する。

しかしながら、既に述べたように、伊藤が茂木を介し被告人橋本に現金五〇〇万円を供与し、また、副島が被告人佐藤に現金二〇〇万円を供与するに至つた経緯は判示(第六・一ないし五)のとおりであることが認められ、右事実によれば被告人両名に対する本件各金員の供与の主体は若狹、藤原であることが明らかであるから、各弁護人の右主張は採用できない。なお、若狹、藤原は、当公判廷において、「丸紅側ではL―一〇一一型機の売り込みに成功したということで各方面にあいさつするだろうから、その中に航空関係に理解の深い被告人両名ら六名が含まれているかどうかを確認し、もし入つていれば全日空からよろしく言つていたと申し添えてほしいとの趣旨を丸紅側に伝えたにすぎず、全日空のためにあるいは全日空に代わつて金員を届けてもらおうなどと考えたことはない。」旨供述しているが、右各証言は、前記一・①に掲記の各証拠に照らし、到底信用できない。

四被告人橋本の弁護人は、かりに検察官が主張するように同被告人に対する本件請託及び若狹、藤原からの同被告人への本件金員の供与があつたものと認められるとすれば、若狹、藤原の右供与の趣旨は右請託に関する謝礼ではない、すなわち、若狹の検察官調書の供述記載によつても、同人が金員を供与しようとした具体的対象者は、昭和四七年一〇月当時の自民党幹事長、官房長官、運輸大臣、運輸政務次官、交通部会長、同部会委員、航対委委員長に限られているのであつて、右事実は本件金員がL―一〇一一のいわゆる「おひろめ」の趣旨で供与されたものであることを如実に示しており、かりに何らかのお礼の趣旨があつたとしても、それは将来好意ある取扱いを受けたいという程度の趣旨にすぎなかつたことは明らかであり、また、被告人橋本が対象者になつたのは、同被告人がたまたま当時自民党幹事長の地位にあつたからにすぎず、もし他の人物が当時幹事長であつたならば、同被告人ではなく他の人物が対象となつていたことは容易に推認し得るところである旨、被告人佐藤の弁護人は、かりに検察官が主張するように同被告人に対する本件請託及び若狹、藤原から同被告人への本件金員の供与があつたものと認められるとすれば、若狹、藤原の右供与の趣旨は右請託に関する謝礼ではない、すなわち、若狹、藤原の各検察官調書によつても、若狹はあいさつすべき先として航空に関係のある政府及び自民党の各役職のみを挙げているのであるが、右事実は個人が対象とされているのではなく、あいさつをする時点でその役職についている人であればだれでもよいということを意味するものであり、したがつて、当時だれが交通部会長の役職にあつてもその対象となつたものであつて、被告人佐藤個人が交通部会長の役職と切り離されて右対象となつたものではない、更に、右各検察官調書によれば、金額の配分について役職によつて格付けしているのであるが、このように「格」によつてランク付けされていること自体、何らかの具体的な行為に対する謝礼でないことを端的に物語るものである旨、それぞれ主張する。

なるほど、若狹の検察官調書(乙62)における「私は(四七年一〇月二八日の全日空幹部役員会で)機種の選定も決定したこの際、いろいろこの機種選定に関してお世話になつた橋本はじめ数名の大臣や国会議員にお礼を差し上げようと思つた。そこで一〇月二八日トライスター採用を内定した幹部役員会が終了した後、私は社長室に経営管理室長の藤原を呼んで、早急に丸紅側と協議してロッキード社との契約の詰めをすることや、一〇月三〇日の取締役会運営の段取り、取締役会後の運輸大臣への報告に関する日航との打ち合せについて指示した。丸紅側との契約の詰めに関しては、前に申したとおりだが、私は更に藤原に『自民党の主だつた方々にお礼をしたいので丸紅に話してくれ。金は丸紅でもロッキードでもどちらが出してくれてもいいので丸紅に任せなさい。お礼を渡すとき全日空から持つてきたと必ず言つてくれるよう丸紅に話してください』と藤原に命じた。すると藤原が『主だつた方々と言うとだれとだれですか』と聞いたので、私は指を折つて数えるようにしながら、『橋本幹事長、二階堂官房長官、佐々木運輸大臣、加藤運輸政務次官、それに自民党の交通部会と航空対策特別委員会の主要メンバーだ』と答えたところ、藤原は更に、『交通部会と航対委の主要メンバーと言つてもどの範囲をいうのですか』と聞くので、私は『そうだなあ、交通部会の佐藤孝行さんと、委員のうちの関谷勝利さん、西村直己さん、航対委委員長の福永一臣さんといつたところだろう』と言つておいた。藤原も経営管理室長として、対外的な活動もしていたので、全日空の業務運営に強い影響力を持つている自民党の国会議員がだれであるかはよく知つているので、私が国会議員の名前を挙げたところ、藤原も『そんなところですね』と言つていた。藤原は『お礼の額はどのくらいにすればいいでしようか』と聞くので、藤原とどのようにしたものだろうかと話し合つた。全日空の場合正規の経理から、盆、暮などの時期に国会議員に差し上げているお金は一人あたり五〇万円ぐらいから多くても一〇〇万円ぐらいだつたが、藤原の話では、全日空は他の会社と比べて少ない方だと言つていたし、今度差し上げるのは新機種決定についていろいろな意味でお世話になつたお礼として差し上げるので、それにふさわしい額でなくてはならないと思い、『三〇〇万円ずつといつたところかな。中でも主だつた先生方、例えば幹事長、官房長官、運輸大臣といつた方々には少し多くして五〇〇万円ぐらいといつたところかな。まあこんなところで丸紅側とよく相談して決めてください』と申し、最終的な金額は、藤原に丸紅と相談したうえで決めてくれるように任せた。」旨、藤原の検察官調書(甲三44)における「(四七年一〇月二八日トライスターを内定し、その機会に丸紅側に要求する内容を若狹社長との間で詰めた際)裏金の件の話しに続いて社長は私に『うちがトライスターに決めたときには丸紅ないしロッキード社から航空関係議員その他しかるべき政治家に全日空の名前でしかるべきあいさつをしてもらえんだろうかということを丸紅に打診して返事をもらえんだろうか』と言つた。私は社長の話を聞いて全日空は数年間にわたり大型機導入のための機種選定や準備をし、やつと本日トライスター内定の段階となり、そして明後日の一〇月三〇日には正式決定の運びとなつたことから、この決定を機会に社長はこの際ごあいさつという形で大型機導入問題などで全日空がいろいろお世話になつた政治家にお礼をするとともに、将来とも全日空のために御尽力をお願いしたいという意味で政治献金をしようということを考えられたものと思つた。しかし私としては実際にどの政治家にいくらの金額を差し上げたらよいかと具体的なことが分からなかつたので、すぐ社長に『かしこまりました、しかし相手はだれで金額はどれくらいにしますか』と尋ねた。すると社長は『そうですね、全日空としては幹事長、官房長官、運輸大臣、運輸政務次官、交通部会長、航空対策特別委員長というところでしようね。金額については今言つた人達にもそれぞれ格というものがあるでしようが、まあ二〇〇万円、三〇〇万円、五〇〇万円というところでしようね。まあ幹事長と官房長官が五〇〇万円、次が大臣三〇〇万円、それに交通部会長、航対委委員長、政務次官が二〇〇万円とこんなところでしようね。金額の点については丸紅の方が専門家もいるでしようからよく知つていると思いますから丸紅にもよく聞いてみてください。丸紅側でも独自に世話になつた人達があるでしようが、その人達には丸紅側でやるでしよう。例えば田中総理とかその他にも持つて行く先があるでしよう』と言つた。……金額については社長は一応今言つたような金額を言つたわけだが、正直なところ全日空ではそれ以前にはこういう政治献金をしたことは余りなくこういうお礼などの意味での政治献金をどれくらいにしたらよいかという点はどうもよく分らなかつた。それで社長も格というものを考えて今言つた五〇〇万、三〇〇万、二〇〇万という線を出したものだろうと思う。そしてこういう献金の金額については商社である丸紅の方が実績も多く丸紅に聞けばより適当な金額が分かると考えていたものと思う。ですから社長は私に丸紅にもよく聞いてくれと言つたのである。このような社長の話から私はお金を届ける人は社長の言つたとおりにしても、金額については社長は一応の線を出しただけで、これを最低線として私が丸紅に尋ねて金額を上げたり、また、丸紅側で政治献金についての専門家がいろいろ考えて一人あたり一〇〇万円や二〇〇万円ぐらい上げるのは構わないというのが社長の考えであると思つたのである。……このように社長に金を届ける相手や金額の話を聞いた後で、私は『よく分りました、丸紅の方に頼んでおきます』と言つた。社長は更に『それから丸紅の方には、全日空はトライスターに決めたので全日空から言われてあいさつに来ましたと一言言つておいてくれと伝えてください、更に今言つた三つの点については月曜日の一〇時ころまでにオーケーかどうかの返事をもらつてください』と言い、私は『分かりました』と答えた。」旨の各供述記載等によれば、若狹は金員を供与すべき対象を選ぶにあたり、被告人両名を含めそれらの者が現に占めている役職に着目していることが窺われ、それらの役職がいずれも航空行政の運用や自民党の航空政策の決定等に直接、間接に関与してこれに影響を及ぼし得る地位であると推認されることをも考慮すると、若狹が被告人両名に金員を供与した趣旨の中に将来全日空のために好意ある取扱いを得たいという趣旨が含まれていたことは否定できないところである。(なお、このことは次に摘記するように若狹、藤原の各検察官調書の供述記載の中にも表れている。)。

しかしながら、若狹の検察官調書には、「私はこのように(四七年七月一日付運輸大臣通達にも国内線への大型機導入時期に関する一項目が入れられ)四九年度に導入するということが決まり、全日空の目的を達することができたのは、橋本が運輸大臣として、私の依頼を聞き入れてくれ、運輸大臣の権限で強力な行政指導をしてくれたお陰であると感謝しており、いずれそのお礼をしなければならないと考えていた。」(乙62)、「全日空が、昭和四五年一月に大型ジェット機導入を目的とした新機種選定準備委員会を発足させ、昭和四七年一〇月三〇日にロッキード社製のトライスターL―一〇一一の採用を決定した過程において、全日空として一番問題であつた大型ジェット機導入の時期の延期について大変お世話になつたお礼や、将来種々お世話になるお礼を含めて、当時の運輸大臣であつた橋本登美三郎に、丸紅の大久保専務と相談のうえ昭和四七年一〇月末か一一月初めころ現金五〇〇万円を差し上げたことがある。」(乙62)、「私が昭和四七年一〇月末か一一月初めころ、橋本登三郎に五〇〇万円を差し上げたのは、全日空が当初計画していた昭和四七年度に大型ジェット機を導入することが不可能な状態であつたので、もし日航が昭和四七年度に大型ジェット機を導入して、国内幹線に就航させると、全日空の事業に多大な影響を及ぼすので、運輸大臣の権限で、日航と全日空が話し合つて、同一時期それも昭和四九年度に導入するよう行政指導を行つていただくよう橋本運輸大臣にお願いし、同大臣が私の依頼を受け入れて尽力してくれて、航空局が日航と全日空に行政指導をしてくれ、そのお陰で日航も昭和四九年に導入することになり、全日空の業績を発展させることができたので、そのお礼の気持等を含めて差し上げたのである。」(乙62)、「橋本に差し上げたお金の中には、将来国会議員なり党の幹事長の立場で、全日空のため直接間接に援助していただきたいという気持ちも含めて贈つたのである。」(乙62)、「佐藤政務次官には、種々お願いし、近距離国際線や、国内ローカル線のダブル・トラックの件や、特に大型ジェット機の幹線導入時期などについて、全日空の立場を理解願い、同次官が私のお願いを聞き入れてくれ、運輸大臣通達に盛り込むという形で決着をつけてくれたことは、全日空にとつて極めて有り難いことであつたので、そのお礼をしなければならないと考えていた。」(甲三35)、「私は、昭和四七年一〇月末ころか一一月初めころ、丸紅の大久保専務を介して、運輸政務次官であつた佐藤孝行に現金三〇〇万円を差し上げたことがある。全日空は、昭和四七年一〇月三〇日にロッキード社製のトライスターL―一〇一一を採用することを決定したが、その際、採用決定の過程で種々お世話になつたお礼や将来もいろいろお世話になるのでよろしくということからお金を差し上げた。運輸政務次官であつた佐藤に全日空がお願いしたことは、当時一番問題であつた大型ジェット機を導入する時期を昭和四九年度にしていただきたいこと、東亜国内航空が国内幹線及びローカル線に進出する場合全日空の便数を減便しないようにしてもらいたいこと、更に全日空の近距離国際線を認可してもらいたいことであつた。これらの事項について、佐藤政務次官にお願いし、種々配慮していただいたのである。」(甲三35)、「昭和四七年一〇月二八日、全日空が幹部役員会で大型ジェット機としてロッキード社製のL―一〇一一を内定した日に、佐藤孝行に右のようにお世話になつたお礼と、今後とも全日空のためによろしくお願いしたいという気持を含めてお金を差し上げる方の一人に加え、藤原と相談し、丸紅側に三〇〇万円を佐藤に届けていただいたのである。」(甲三35)旨の供述記載があり、また、藤原の検察官調書には、「橋本に対して全日空では昭和四七年一〇月末ごろに丸紅に依頼して七〇〇万円ぐらいの金を贈つている。橋本は佐藤内閣の終りころの昭和四五年から四六年前半にかけて運輸大臣をしていたが、橋本運輸大臣当時、全日空では大型機の導入を計画しており、全日空の準備の都合などで日航と全日空に対して運輸省から大型機導入時期を遅らせるように行政指導をしていただきたいということを橋本運輸大臣以下運輸省航空局にお願いし、現に四六年二月にそういう行政指導をしていただいたのである。橋本に先程言つたように丸紅を通じて七〇〇万円ぐらいの政治献金をしようとしたのはこういう行政指導をしていただいたことに対するお礼の意味や、橋本はその当時つまり四七年末ごろには自民党幹事長に就任しており、田中内閣の大番頭として自民常内で力を持つていたので、将来とも航空問題で全日空が橋本にいろいろお世話になりたいというお願いの意味も含めていたのである。」(甲三44)、「もちろん日航が大型機の導入を遅らせた理由が四六年二月の行政指導だけによるものだとは言えず、例えば四六年七月の雫石事故という要素もあつたかと思うが、しかし日航が国際線用ジャンボを国内線に転用してまで昭和四七年ごろまでに国内線を大型化させようということまで考えていた四六年二月当時において、今言つたような行政指導がなされたことにより、日航に対してブレーキがかかり、大型機の導入時期を四九年度まで遅らせる極めて大きな原因となつたことは事実であつて、全日空としてはこの行政指導が行われたことで救われたという面が強く、この行政指導をしてくれた運輸省のトップの橋本運輸大臣には感謝していた次第である。それだけでなく、橋本は四七年七月の田中内閣発足後自民常幹事長に就任し、田中内閣の大番頭というような地位で自民党内で大きな力を持つことになり、しかも橋本は全日空の元の社長の美土路とも朝日新聞の関係で親しく、今後の航空政策についても橋本にお願いして政府なり自民党内で全日空に有利になるように動いていただきたいと考えるようになつたのである。それでトライスター導入決定に際して、先程言つた行政指導の点のお礼の意味や今後とも全日空をよろしくお願いしますという意味を込めて、橋本に政治献金をすることを社長も考え、私は社長の指示によりこの献金の手配をしたのである。」(甲三44)、「(昭和四七年一〇月二八日の常務以上の首脳会議でロッキード社のトライスターを導入することを内定した日の午後、社長室で社長の話を聞いて)私は橋本については行政指導をお願いしてやつてもらつたことのお礼やこれからも全日空のためにいろいろ尽力していただきたいということで差し上げるものだと思つた。」(甲三44)、「このようにして佐藤がいろいろ草案を作つたりして最終的にできた運輸大臣通達は必ずしも全日空の満足すべきものとは言えなかつたにせよ、四五年一一月二〇日の閣議了解を具体化するにあたつてダブル・トラックや東亜国内の幹線参入により、全日空が受ける被害を最小限度にとどめるものであつただけでなく、大型機の四九年度導入という線が明記され、またチャーター便の制約が外された点などで、全日空の希望が取り入れられたものであつたし、またこの通達作成の過程で佐藤次官は全日空に好意をもつて全日空の希望や意見を聞いてくださり、それをおおむね全面的に通達の草案に取り入れてくださつたものであり、全日空としては佐藤次官に対してこれらの点で感謝し、有り難く思つたわけである。そしてこのような佐藤次官の考えから見て佐藤次官は将来とも日航と対抗して行かなければならない全日空にとつていろいろ今後とも尽力してくださるであろうし、全日空からも佐藤にいろいろお願いして尽力をしていただこうと考えるようになつたのである。佐藤次官は先程の通達が出た後の七月に田中内閣が発足した際、運輸政務次官を辞めて自民党交通部会長になつた。その後間もなくの四七年一〇月末に全日空ではトライスターの導入を決定したわけであるが、その際一〇月二八日の午後社長は大型機の四九年度導入ということの決定などでお世話になつた佐藤に対しても金を届けるよう私に指示したわけであるが、社長は佐藤が政務次官当時大臣通達の作成のためにその草案を作成した際私どもの陳情やお願いをよく聞いて二回目、三回目の草案におおむね全面的に取り入れていただいたことや、また実際に行われた通達でも全面的に全日空の希望どおりとは言えないまでも、一部大型機の導入時期や国際チャーター便の条件の削除などが認められたことなどから、これらの点に対するお礼の意味や、また当時佐藤が自民党交通部会長とか、衆議院運輸委員などという役職についており、いわゆる航空族議員として力を持ち始めていたので、これからも、全日空のためにいろいろお世話になりたいという意味で佐藤に丸紅を通じて金を贈ろうと考えたものであると思い、私も社長の指示に従つて佐藤に丸紅を通じて三〇〇万円贈つてもらうよう松井に頼んで手配したのである。」(甲三45)旨の供述記載があるところ、右各供述記載は、

① 本件各金員は全日空における大型機の機種決定を機に供与されたものであること

② 大型機の導入時期の問題は、大型機の機種選定作業と密接に関連し、全日空にとつても重要な懸案事項であつたところ、判示の経緯により被告人橋本に対し本件請託を行つたことにより、運輸省事務当局から判示のとおり大型機導入時期延期の行政指導が行われ、その結果日航の昭和四七年四月大型機導入の計画を当面延期させることに成功したものである(若狹、藤原もそのように理解していた。)こと

③ 被告人佐藤に対しては、判示の経緯より、判示のとおり、大型機の導入時期の点をはじめ近距離国際線の運営等全日空にとつて営業上重大な利害関係にある事項に関し、全日空の希望を通達中に定められたい旨依頼して請託し、その結果本件通達において大型機の国内幹線導入時期が同四九年度以降と明示され、その他の点についても右通達はある程度右請託の趣旨に沿つた内容のものとなり、また、判示のとおり、本件通達立案の過程において、成案には至らなかつたものの同被告人が全日空の要望をほぼ全面的に採用した草案を作成していること

④ 大久保は、当公判廷(三九回)において、昭和四七年一〇月二九日夜自宅で松井からの電話を受けた際、松井から「今、藤原と会つている。藤原は『明日L―一〇一一を決定したいと思つているが、それに先立つてろ全日空がこの件でお世話になつている方々にお礼をしたい。それを全日空からということを明示して丸紅側で渡してほしい』と言つている」と聞いた旨証言しているところ、右証言によれば、藤原は松井に対し右と同趣旨のことを話したものと推認できること(なお、全日空が大型機種の選定過程において、本件各請託関係以外に被告人両名から格別の世話にあずかつたことを窺うに足りる証拠は皆無である。)

⑤ 若狹、藤原は、当公判廷において、前記のとおり、全日空のためにあるいは全日空に代わつて金員を届けてもらおうなどと考えたことはない旨証言するのみで、被告人両名に対し本件各金員を供与した趣旨について納得できる説明を何らしようとしないこと

などに徴すれば、十分これを首肯できるものと言わなければならない。なお、付言するに、被告人両名に対する本件各金員供与の趣旨に関する検察官調書の右各供述記載について、若狹は第七五回公判において、「右各供述記載の読み聞けは受けたが、それは自分が述べたことではなく、事実と全く異なることが書かれていたが、公判廷で明白にしていただく以外にないと思い、検事にそのように申し上げたうえサインした。」旨供述し、藤原は、当公判廷(六四回、六七回、六九回)において「それらは検事の作文である。自分がいくら違うと主張して検事に抵抗しても聞いてもらえないので、根負けしてしようがないという気持で署名指印した。」旨供述している。しかしながら、若狹、藤原の各経歴(関係各証拠によれば、若狹は、大学を卒業し、運輸省に勤務していたが、昭和四二年三月事務次官を最後に退官し、日本海事財団の相談役を経て同四四年四月常勤顧問として全日空に入社し、同年五月三〇日代表取締役副社長となり、次いで同四五年六月一日代表取締役に就任し、同五一年一二月までその地位にあつたものであり、藤原は、昭和二八年大学を卒業して同年一一月日本ヘリコプター輸送株式会社〈同社は同三二年一二月全日空に商号変更〉に入社し、同四四年一〇月本社企画室長に就任し、同四七年組織の変更により経営管理室長になり、同四八年五月取締役に選任されて取締役兼経営管理室長となり、同五一年一二月までその地位にあつたものであることが明らかである。)に照らし、かりに取調検察官の押し付け等があつたからといつて、若狹、藤原がこれをたやすく屈して、被告人両名の刑責にかかわる重大な事柄が記載されているのに、しかも虚偽と知りつつあえて署名指印するなどということは一般的にまず考えられないことであり、加えて、若狹は第七六回公判においては、「事実無根の調書に署名しても、橋本らに迷惑をかける結果になるということは全く考えてもいなかつた。」旨供述しているが、前記内容の検察官調書に署名すれば、同調書に基づき被告人両名が公訴を提起されるに至るかもしれず、そのような事態になつた場合被告人両名にとつて極めて大きな迷惑であることは、右経歴を有する若狹としては容易に理解できるはずであつて、若狹、藤原の当公判廷における右弁解には合理性がないものと言わなければならない。また、被告人佐藤の弁護人の、供与すべき金額が「格」によつて決められているから本件金員は何らかの具体的な行為に対する謝礼ではない旨の前記主張も、過去の具体的な行為に対する謝礼として金員を供与する場合であつても、その金額を決めるについて被供与者の現在のいわゆる格を考慮することは何ら異とするに足りないから、失当であると言わなければならない。

しかして、若狹、藤原の検察官調書の右各供述記載に関係各証拠を総合すれば、若狹、藤原が被告人両名に本件各金員を供与した趣旨は判示のとおりであると認定できるのである。

五被告人橋本の弁護人は、前記四と同様の仮定のもとに、同被告人には賄賂性の認識がなかつた、すなわち、

① 仲介者の伊藤から被告人橋本に対し本件金員供与の趣旨が伝達されていないこと

② 本件金員の収受が行われたのは、本件請託から二二か月、同被告人が運輸大臣の地位を去つてからでも一六か月も経過した後であること

③ 本件金員の収受は臨時国会開催中で衆議院の解散を目前に控えた時期に行われたものであり、当時同被告人は自民党幹事長として立候補者の選考、選挙資金の準備等総選挙対策の総括的立場にあつたこと

など総合勘案すれば、同被告人において、本件金員の収受に際し、右金員が本件請託に対する謝礼であることの認識すなわち賄賂性の認識があつたとは到底言えない旨、被告人佐藤の弁護人は、前記四と同様の仮定のもとに、検察官の主張する事実を前提としても、若狹の本件金員供与の趣旨は同人の内心にとどまつているにすぎず、同被告人には伝達されていないのであつて、同被告人は本件金員が一定の請託に対する反対給付であるという意識すなわち賄賂性の意識を全く欠如していたものである旨それぞれ主張するので検討する。

1被告人橋本について

既に検討したように伊藤が被告人橋本の私邸を訪問して同被告人と面接し、その後丸紅東京支店において茂木に対し本件五〇〇万円を手交した状況は、伊藤の前記証言のとおりであると認められる(ただし、伊藤が同被告人に述べた口上について、伊藤の検察官調書〈甲三16〉には「実は全日空からロッキードに決まつたお礼として届けるように私の方に依頼がありましたので預かつてまいりました。」と述べたという供述記載があるが、伊藤は当公判廷〈四七回〉ではこれを覆し、前記のように「全日空からお預りしてまいりましたものです」と述べたにすぎない旨証言している。しかしながら、大久保が、前記のように、電話で松井から「今、藤原と会つている。藤原は『明日L―一〇一一を決定したいと思つているが、それに先立つて全日空がこの件でお世話になつている方々にお礼をしたい。それを全日空からということを明示して丸紅側で渡してほしい』と言つている」と聞いた旨の証言〈三九回〉をしていること、伊藤の検察官調書〈甲三16〉には、「大久保常務から『橋本幹事長などに金を届ける際には全日空からのお礼であるときちつと言つてください』と言われた記憶がある。」旨、「松井は私に『今度トライスターに決まつたことで世話になつた先生方に全日空からお礼をすることになりました。全日空の依頼で先生方に金を届ける役を丸紅でやることになりました』と説明し始めた。」旨、「〈松井と話し合つた後〉私は副島を呼んで松井と三人で各先生方にだれが金を届けるかその分担を決めた。……私は、二階堂、橋本両先生は私が届ける、あとの先生方は副島君届けてくれ、と命じておいた。その際、『この金は全日空からのお礼であるとはつきり言つて渡してください』と松井から念を押されたと覚えている。」旨の各供述記載があるところ、伊藤は当公判廷において、右の点につき「全日空から預かつてきたということははつきり申し上げてくれと言われたが、〈全日空からのお礼であるとはつきり言つてくれというような〉そこまではつきりは言つていなかつたと思う。絶対なかつたとも断言はできないが、そこまではつきり聞いた記憶はない。」旨〈四七回〉、右の点につき「全日空から三、〇〇〇万円を先生方にお届けすることを依頼され、重要な取引先でもあるから引き受けたという話で、〈今度トライスターに決まつたことで世話になつた先生方に全日空からお礼をすることになつたというような〉そこまではつきり聞いたかどうか覚えていない。」旨〈四七回〉、「〈松井からの〉金の趣旨についての説明は、私は、はつきりしていないんだが、前回の検察官の主尋問で、トライスターに決まつたお礼だと言われたのではないかと聞かれ、その記憶はないと申し上げ、絶対になかつたとも断言できないと申し上げた記憶がある。あつたかもしれないということだが……あんまりそういうことをせん索するような気持もなく、とにかく届ければいいんだなという感じであつた。」旨〈五〇回〉、右の点につき「全日空からのお礼であるとはつきり言うようにということは、私は申したことはないと思うし、松井からそういう話が出たかどうかについても、大久保の場合と同様はつきり聞いた記憶が残つていない。しかし、絶対になかつたとも申し上げられない。」旨〈四七回〉の証言をし、いずれも含みのある微妙な言い回しをしているのであつて、検察官調書の右ないしの各供述記載の内容を必ずしも否定はしていないものと認められること及び若狹が本件金員を供与するに至つた判示経緯等にかんがみると、伊藤は被告人橋本に対し、検察官調書の前記供述記載と同趣旨の口上を述べたものと認めるのが相当である。)ところ、右事実に検察官が論告において指摘する次の諸点(論告要旨一九五頁八行目から一九七頁一五行目まで)、すなわち、

① 被告人橋本は、若狹から本件請託を受け、その趣旨に沿つて大型機導入延期の行政指導を行つたのであり、これにより全日空の要望に応じて尽力したという意識を有していたものと認められ、しかも、右指導の内容は、それまで運輸省がとつてきた大型化推進という基本方針(判示第二・二のように、航空機の大型化推進をうたつた昭和四五年一一月二〇日の閣議了解に同被告人は自ら主務大臣として関与し、また、これに先立つ運政審に対する諮問も同被告人の名義で行われている。)に逆行するものであつたばかりでなく、運輸省事務当局において検討のうえ日航に対し運輸大臣名で行つた機材の取得認可を、わずか二か月余りで特段の事情の変化もないのに実質的に覆すという極めて異例のものであつて、同被告人においても、本件請託を受けた際若狹から説明を受けるなどして右の事情を了知していたものと認められ、したがつて、右行政指導は、同被告人にとつて運輸大臣在任中体験したことの中でも強く印象に残る事柄であつたとみるが自然であること

② 本件金員の授受に際し、伊藤は、あらかじめ「全日空からの用件で先生にお目にかかりたい」旨申し入れた(伊藤証言〈四九回〉)うえ、早朝被告人橋本宅を訪れ、同被告人に対し、右認定のように「実はロッキードに決まつたので、全日空からお礼として届けるよう依頼されて預かつてきた」旨、全日空が導入する大型機の機種を決定した機会に全日空から贈られる謝礼の趣旨であることを明示して本件金員を差し出しているのであり、しかして、同被告人は、若狹の請託を容れ、同人に対し日航には全日空と同一時期に大型機を導入させるようにするとの意向を表明し、日航と全日空において同一時期に大型機を導入することが確定し、その結果ロッキード社製のL―一〇一一を選定した全日空が、その機会をとらえて前記行政指導に対する謝礼として本件金員を持参したものであることを容易に認識し得たものと認められること(なお、前記のように、全日空が大型機の機種選定の過程で同被告人から他に格別の世話にあずかつたことを認めるに足りる証拠は皆無である。)

③ 被告人橋本は、本件のように五〇〇万円という多額の現金を全日空から提供されたことはかつてなかつた(若狹〈乙62〉、藤原〈甲三44〉の各検面調書等)のに、伊藤から右のようにして本件金員を差し出された際、同人に対し、全日空から金員を贈られる理由や全日空からの謝礼を丸紅が届けることとなつた理由等につき何らの質問をすることもなくこれを受領する意思を表明し(伊藤証言〈四七回〉)、しかもその場では受領せず、わざわざ後刻秘書の茂木を丸紅東京支店の伊藤のもとに差し向け、茂木をして右金員を受領させたことは、同被告人が本件金員の趣旨を即座に理解し、それゆえにこそ、その授受に自らかかわることを回避しようとしたためであるというのほかはないこと

④ 本件五〇〇万円については、被告人橋本を支持、推薦する政治団体の収入として政治資金規正法所定の記帳、報告がなされていないことはもとより、受領に当たつて領収証すら交付していないのであるから、同被告人と供与者側との間に授受を秘匿すべき性質の金員であるとの暗黙の了解があつたとみるのが自然であり、このことは、伊藤の、「橋本の指示を受けて本件金員を受け取りにやつて来た茂木は、領収書を書く用意など全然していなかつた様子であつた。」旨の証言(五〇回)からも十分に窺うことができること

のほか、

⑤ 既に検討したように、伊藤の証言等関係各証拠によれば、同人が被告人橋本の私邸を訪れて同被告人と面接し、その後同被告人の指示を受けた茂木に本件金員を手交したことが明らかであるにもかかわらず、同被告人は伊藤と面接したこと及び本件金員の授受自体の否認に終始するのみで、本件金員の趣旨に関する認識について納得できる説明を何らしようとしないこと

など総合勘案すれば、弁護人主張の前記諸点を考慮してもなお、被告人橋本は、本件金員は本件請託に対する謝礼等の趣旨であることを認識したうえ、茂木を介してこれを収受したものと認定するのほかはない。

2被告人佐藤について

既に検討したように、副島が衆議院第二議員会館三三九号室を訪れて被告人佐藤と面会し、同被告人に対し本件二〇〇万円を手交した状況は副島の前記証言のとおりであると認められる(ただし、副島が同被告人に述べた口上について、副島の検察官調書〈甲三17〉には「この度全日空がお礼を差し上げるということで預かつてまいりましたものをお届けにまいりました。どうぞお受け取りください」と述べたという供述記載があるが、副島は当公判廷〈四三回〉ではこれを覆し、「全日空からお預りしたものです。お納めください」と述べたにすぎず、「全日空がお礼を差し上げるということで」ということは言つていない旨の証言をしている。しかしながら、前記1で被告人橋本について述べた大久保の証言、伊藤の検察官調書の各供述記載及びこれに関する同人の法廷証言のほか、副島の検察官調書〈甲三17〉に「〈クラッターが金を届けた日の午後、松井が秘書課へやつて来て、伊藤の席の前で同人と話をしていたが、しばらくして伊藤に呼ばれたので私が伊藤の席の前に行き松井の横に立つたたころ〉伊藤は、……『橋本先生と二階堂先生にはおれが届ける。佐々木、福永、佐藤、加藤の各先生方には君が松井君と相談して届けてくれ。金を届けるときは何かに入れて持つて行き、直接先生に会つて全日空からのお礼だと言つて手渡しなさい。……』と言つた。」旨の供述記載がある〈もつとも、副島は、当公判廷―四三回―では、お礼という言葉はなかつた旨供述しているが、右に掲記の各証拠に照らし信用できない。〉こと及び若狹が本件金員を供与するに至つた判示経緯等にかんがみると、副島は被告人佐藤に対し、検察官調書の前記供述記載と同趣旨の口上を述べたものと認めるのが相当である。)ところ、右事実に検察官が論告において指摘する次の諸点(論告要旨一九八頁初行から一九九頁末行まで)、すなわち、

① 被告人佐藤は、判示のとおり、昭和四七年七月一日示達した運輸大臣通達作成に至る過程で三回にわたる若狹らの本件請託を受け、運輸省事務当局の反対を押し切つて右請託の趣旨に沿つた通達案を自ら作成するなど全日空のため種々尽力し、大型機の導入時期を全日空の希望する同四九年度からとすること及び全日空の近距離国際線運営の拡充を認めることなどを通達中に盛り込むことに努めていたのであり、その結果右通達中に相当程度全日空の要望が取り入れられたのであるから、同四七年一〇月三一日本件金員を受領するに際し、同被告人において、右通達策定に関し全日空の要望に応じて尽力したとの認識を有していたことは明らかであること

② しかして、被告人佐藤は、副島から「丸紅の秘書課長だが、全日空からの依頼で先生にお目に掛かりたい」旨の電話連絡を受けて面会の約束をした(副島証言〈四三回〉)のうえ、翌三一日に同人の訪問を受け、右認定のように「この度全日空がお礼を差し上げるということで預かつてきたものをお届けにきた」旨の口上とともに同人から本件金員を差し出されたのに対し、全日空がいかなる趣旨で謝礼をよこすのか等の点について何らの疑問を呈することもなく(副島証言〈四三回〉)、「有り難う、ご苦労さんでした」と言つて(副島の検察官調書〈甲三17〉)これを受領しているのであるが、このことは、同被告人が本件請託関係以外に全日空に対し格別尽力したことを認めさせる証拠が皆無であることをも併せ考えると、同被告人において、全日空が本件請託に対する謝礼等の趣旨で本件金員を供与しようとするものであることを即座に理解したことを示すものであるとみられること

③ 本件金員が二〇〇万円という多額の現金であつて、被告人佐藤がかかる金額を全日空から提供されたことはかつてなかつたこと(若狹〈乙62〉、藤原〈甲三44〉の各検察官調書等)、本件金員の受領につき政治資金規正法の記帳、報告がなされていないのはもちろん、領収証すら交付せず、授受に際し領収証の要否が話題にも出なかつたこと(副島証言〈四三回〉)等の事実は、同被告人が本件金員を賄賂であると認識していたことを裏付けるものとみられること

のほか

④ 既に検討したように、副島の証言等関係各証拠によれば、同人が衆議院第二議員会館三三九号室を訪れて被告人佐藤と面接し、同被告人に本件金員を手交したことが明らかであるにもかかわらず、同被告人は右面接をしたこと及び右金員の授受自体の否認に終始するのみで、本件金員の趣旨に関する認識について納得できる説明を何らしようとしないこと

などを総合勘案すれば、被告人佐藤は、本件金員は本件請託に対する謝礼等の趣旨であることを認識したうえこれを収受したものであると言わなければならない。

六被告人橋本の弁護人は、前記四と同様の仮定のもとに、刑法一九七条一項後段の受託収賄罪が成立するには、公務員において賄賂に対する対価として何らかの職務執行をする意思(対価意思)の存在が必要であるところ、本件では職務執行のときに右の対価意思が存在しないから、受託収賄罪は成立しない旨主張する。

しかしながら、受託収賄罪が成立するには、賄賂を収受するときにそれが請託に対する対価であることの認識があれば足りるのであつて、請託を受けた時点(ないしは請託に応じた職務執行をする時点)で弁護人主張の対価意思の存在が必要であるとは解せられないから、弁護人の右主張は失当である(なお、昭和二七年七月二二日最高裁判所第三小法廷判決〈同二六年(あ)第二一九号事件〉刑集六巻七号九二七頁参照)。

七被告人両名の各弁護人は、前記四と同様の各仮定のもとに、公務員が一般的職務権限を異にする官職に転じた後に転職前の職務に関し謝礼を収受しても収賄罪は成立しないものと解すべきところ、被告人橋本は運輸大臣、被告人佐藤は運輸政務次官に在任中、その各職務に関して本件各請託を受けたとされ、本件各金員を収受したのは、右各官職を離れた後で公務員の地位としては単に衆議院議員であつたときであるとされているのであり、運輸大臣又は運輸政務次官と衆議院議員とが一般的職務権限を全く異にすることは明らかであるから、被告人両名それぞれについて本件各受託収賄罪は成立しない旨主張する。

しかしながら、公務員が転職後に前の職務に関し謝礼を収受した場合、収受の際に公務員である地位があれば収賄罪が成立するのであつて、転職の前後を通じ一般的職務権限に同一性があることは必要でないと解すべきであるから、各弁護人の右主張は失当である(なお、昭和二八年四月二五日最高裁判所第二小廷法判決〈同二六年(あ)第二、五二九号事件〉刑集七巻四号八八一頁、同二八年五月一日同小法廷判決〈同二六年(あ)第二、四五二号事件〉刑集七巻五号九一七頁参照)。

第四  公訴棄却の主張について(被告人佐藤関係)

被告人佐藤の弁護人は、本件は、検察官の主張によれば共犯者であるコーチャン及びクラッターに対しては、単に証言獲得の手段として、検事総長及び東京地方検察庁検事正が各不起訴宣明を発し、更に最高裁判所がこれを保証確認する宣明を発して不起訴の保障を与えながら、他方被告人佐藤らに対し公訴の提起をしたものであり、本件公訴の提起は同被告人らを差別的に取り扱つたものであつて憲法一四条に違反するから、刑事訴訟法三三八条四号により右公訴は棄却されるべきである旨主張する。

しかしながら、コーチャン及びクラッターに対する右の各不起訴宣明は、これを発するについて合理的な必要性があつたと認められることは、コーチャン及びクラッターの嘱託証人尋問調書の採否に関する当裁判所の昭和五四年一〇月三〇日付決定書に記載のとおりである(同決定書一〇九丁八行目から一一七丁六行目まで)から、同弁護人の右主張は失当である。

(量刑の事情)

本件は、被告人両名が、運輸大臣(被告人橋本)又は運輸政務次官(被告人佐藤)の職にあつたとき、いずれも、航空運送事業等を営む全日空の社長若狹らから判示各請託を受けてこれに沿つた判示各職務行為を行い、その後右各請託の謝礼等の趣旨で五〇〇万円(被告人橋本)又は二〇〇万円(被告人佐藤)という多額の現金をそれぞれ収受したという受託収賄の事案である。

ところで、航空運送事業にあつては、運航の安全確保が至上課題であることは多言を要しないところであり、それゆえにこそ、法は、航空運送事業を経営しようとする場合路線ごとに運輸大臣の免許にかからしめ、事業遂行の過程においても事業計画の変更等逐一これを同大臣の認可にかからしめるなど、事業者である航空企業を広範かつ厳しい監督に服させているのであるから、このように重要かつ厳しい監督に服させているのであるから、このように重要かつ公共性の強い航空運送に関し、政策の決定や監督行政の任に当たる者については、いよいよ公正かつ廉潔であることが要求されることは言うまでもないところである。これらの点にかんがみると、被告人両名の本件各所為が航空行政の公正とこれに携わる公務員の廉潔性に対する国民の信頼を著しく失墜させたものであることは、検察官が論告において指摘するとおりであり、同時に国民に政治不信の念を抱かせた点もまた看過し得ないところである。更に、既に述べたように、伊藤、副島の各証言等関係各証拠により疑いの余地がないと認められるにもかかわらず、被告人両名ともあえて金銭の授受自体をも否認で押し通し、殊に、被告人佐藤は、殊更アリバイを主張しているのであつて、右諸点にかんがみると、被告人両名の本件刑責は重いと言わなければならない。しかし、他方、被告人両名いずれについても、本件各請託を受けたとはいえ、殊更不当な職務行為をなしたものとは認められないこと、本件各職務行為に際しては賄賂に対する対価としてこれを行うとの意思はなかつたものと認められること、本件各賄賂は、被告人両名の方でこれを要求したりあるいはその供与方を暗示したりしたものではなく、若狹らの方で丸紅を介して一方的に提供したものであることなど被告人両名に有利に斟酌すべき情状も認められる。そこで、以上諸般の事情を総合考慮したうえ、被告人両名を主文掲記の各刑に処し、被告人両名に対し、この裁判の確定した日から各三年間それぞれその刑の執行を猶予することとした。

よつて、主文のとおり判決する。

(新谷一信 谷鐵雄 松本信弘)

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